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大地の歌・・・Festspielhaus Baden-Baden・・・2017/10/7 [バレエ]

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John Neumeier Choreographie
Hamburg Ballett John Neumeier
Klaus Florian Vogt Tenor
Benjamin Appl Bariton
Simon Hewett Dirgent
Deutsche Radio Philharmonie Saarbrücken Kaiserslautern
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 前日の悪天候の影響でDBの運行が乱れ、3時間遅れの17時半にようやくバーデンバーデンに到着。それでも19時開演だったので余裕で間に合いました。

 ドイツが誇る巨匠ノイマイヤー率いるハンブルクバレエの公演ですが、元々バレエにはほとんど興味がないので、フォークトが出演しなければ失礼ながら気にも留めない公演でした。ただフォークトにとっては日本公演のすぐ後というのが少々心配のタネ。疲労から降板の可能性もあるかと覚悟はして臨みました。
 しかし、そんなことは無用の心配でした。疲れなど微塵も感じることのない熱唱ぶり。大地の歌は奇数章をテノールが歌うことになってますが、奇数章は激しく歌うので、バレエの公演といってもバレエは背景と化してしまいました。歌う位置はテノールが舞台の左端、バリトンは右端でしたが、奇数章では声に引力があるかのごとく視線が左端に向かってしまい、主役はテノール。これで良いのか悪いのか?バレエの公演としては偶数章を歌ったバリトンの方が自然に溶け込んでいるように感じてしまいましたが、これは[猫]自身のバレエには興味がないという個人的嗜好が要因という気もします。
 歌詞は李白、孟浩然、王維などの唐詩に基づいたものとあって、音楽にも東洋的な部分がありますが、バレエの演出も空間の取り方など、シンプルな中に東洋的な美しさを感じるものでした。ダンサーの配役に東洋系の人達が多かったのも唐詩ということを意識したのかもしれません。
 一人の青年の心模様を表現した演出は、最近オペラ公演でも度々見受けられる分身の手法を取り入れたものでした。
 青年の物語には若々しい声のフォークトこそが相応しく、良いのか悪いのか?という自問自答はただの独り言でしかないのかもしれません。
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ゲーテのファウストからの情景・・STAATSOPER UNTER DEN LINDEN・・2017/10/6 [オペラ]

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MUSIKALISCHE LEITUNG  Daniel Barenboim
INSZENIERUNG  Jürgen Flimm

FAUST, DOCTOR MARIANUS  Roman Trekel
GRETCHEN, UNA POENITENTIUM  Elsa Dreisig
MEPHISTOPHELES, BÖSER GEIST, PATER PROFUNDUS  René Pape
MARTHE, SORGE, MATER GLORIOSA  Katharina Kammerloher
NOT, MAGNA PECCATRIX  Evelin Novak
MANGEL, MULIER SAMARITANA  Adriane Queiroz
SCHULD, MARIA AEGYPTICA  Natalia Skrycka
ARIEL, PATER ECSTATICUS  Stephan Rügamer
PATER SERAPHICUS  Gyula Orendt
SOLI  Narine Yeghiyan Florian Hoffmann Jan Martiník
SCHAUSPIELER FAUST, HEROLD  André Jung
MEPHISTOPHELES, LIESCHEN  Sven-Eric Bechtolf
GRETCHEN, ASTROLOG, ENGEL, TÜRMER  Meike Droste
PROLOG, EPILOG  Anna Tomowa-Sintow
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 待望のリンデンのオープニング。3年のはずが7年ですから、幼稚園生が中学生になってしまいました。
 
 このオープニングは本来の予定よりも遅れたので、世界中の公演、歌手の人達に影響があったに違いなく、実際日本でもここのアンサンブルであるパーペがバイエルンの公演に参加できないことになってしまいました。それでもネトレプコが急遽来日公演をしたのもおそらくはここのスケジュールが開いたのでしょうから、良い影響もあったのかもしれません。

 何から書いて良いものやら、公演の感想、新装の劇場についてなど、なんもかんも、てんこ盛り!です。

 まず、公演の印象がてんこ盛り!ファンタジー。ということで、シューマンの『ゲーテのファウストからの情景』の感想から。
 元々歌劇ではないこの作品が演出つきで上演されるのは珍しいことです。
 作品構成がゲーテの作品からいくつかの場面を抜き出したものであるため、演出は曲の間を劇で補うという趣向。そのためファウスト、グレートヒェン、メフィストフェレスは歌手と俳優の二人ずつ。ただし交互に舞台上に出てくるというわけではなく、二人共舞台にいることがあったり、劇中劇風の様相も呈していたのが複雑な二重構造という感がありました。それにその他の登場人物も多く、後半は児童合唱に混成合唱と舞台上は人で溢れかえって、まず物理的にてんこ盛り!状態。
 歌の部分は独語、英語の字幕があっても劇の台詞は全く字幕なし。もちろんドイツ人の人達あるいは独語が堪能な人達には全く問題なしであって、劇の台詞に字幕をつけるのは前日のようにフランス語圏で英語の台詞だったら当然でも、自国の言葉に字幕というのは役者さんたちがやりにくいだけでなく、タイミング悪く字幕が先に出てしまうと不興になってしまいます。
 しかし、独語が堪能でない[猫]の感想は南海、ホー、クス ←誤変換<(_ _)>
難解、ほー、クス
ここの舞台ってこんなに奥行があったのかと驚きの(@o@)ほー
アリエルの宙づりや鬼の子達のかわいらしさに(・m・ )クスッ。
 それに、こんな高齢者にしか分からないオヤジギャグほどしょーもないものではないにせよ、内容的にも茶目っ気、洒落っ気のある遊び心や意味不明の部分がテンコ盛り!でありました。
 難解ついでに、4人の灰色の魔女たちは不気味な様子ではあっても素敵なロングドレス姿で、なんだか難解キャンディーズ。栄光の聖母と悔い改めた女たちはピンクの袈裟を身に着けた僧侶で、難解ピンクレディー<(_ _)> こんなオヤジギャグはいい加減にするとして、このところ多くの演出家に仏教への傾倒傾向が見受けられるのは時代の反映なのかもしれません。
 

 てんこ盛り演出はギャル曽根の胃袋のような脳味噌を持ち合わせていない[猫]には鑑賞しながらの消化は難しく、アップアップ状態になりそうではありましたが、色鮮やかな巨大ポップアップ絵本のようなセットと可愛らしい衣装は御伽噺風という一面もあり、何より音楽の浸みわたるような美しさと輝かしさに飽きることなく鑑賞することができました。特に最後の合唱の神々しいばかりの圧倒的な力は筆舌に尽くしがたく、長い歳月を経て再開を果たした歌劇場の第一歩に相応しいものでした。
 
 シラーという小さな仮小屋で7年もの間、公演数が減っただけでなくオケピに入る人数も減って、オケのメンバーの中にはオペラ感が鈍ってる人もいるのではないかと考えたりしてましたが、ただの素人の杞憂でありました。
 音響は明らかに残響感が強くなってドレスデンに近いような印象で、演目によってはこの音響に慣れるのに時間がかかることもあるかもと考えたりもします。でもそれも素人の杞憂なのかもしれません。個人的には以前のドライな音響が好みだったので、少々寂しい気もしてますが、以前の建物のまま続けていたら突然床が抜けて大事故になっていたかもしれず、無くなってしまったものを追っても仕方ありません。とにかく再開に至ったことはめでたい\(^o^)/万歳\(^o^)/

 歌手は全員アンサンブルメンバーとここの国際オペラスタジオのメンバー(研修生のようなものだと思います)だったのも喜ばしいことでした。なんといっても7年間も待って再開を一番喜んでいるのはオケ、アンサンブル、コーラスなど関係者の人達なのですから。それぞれ活き活きとチームワーク良く完成度が高かったのは言うまでもありません。

 てんこ盛りで舞台がごった返して見えるときも、目立っていたのが背の高いトレーケル。特にマリアヌス博士となった後は品格のある声と鍛え抜かれた体躯で崇高な雰囲気に溢れていたのが印象的でした。
 昨年まで国際オペラスタジオのメンバーの一人だったドライシヒ(ドイツ語読みしましたが、フランス人で姓はデンマーク人である母親と同じなので本来は別の読み方だと思います)が今シーズンからアンサンブルメンバー入り。1991年生まれということでまだ20代ですが、研修時代からチョイ役でも光っているという印象はありました。アンサンブルになって早々、今シーズンはこの他にもヴィオレッタなども歌うのですから大活躍しそうです。昨年のオペラリアで1位となっただけあってどの音域でも発声に無理がなく、透明感のある若々しい声はグレートヒェンにぴったりでした。既に舞台慣れしている感もあるのは研修時代からの積み重ねもあるのでしょう。3月にボルドーで観た『オルフェオ』でも同じ1991年生まれのアスプロモンテが大活躍してましたが、将来有望な若手を発見できるのも遠征の楽しみです。

 尚、今シーズンからアンサンブルメンバーの中にシャーガーの名前も加わってました。昨今の引っ張りだこ状態にまで至った経緯を鑑みれば、オファーがあったら受けるのは自然なことのような気がします。

 次に新装の劇場について  ↓修復前 
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               ↓修復後
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 外観からしてピンク色になってかわいらしく、内部はピッカピッカ!以前は廊下に写真などが飾ってありましたが、それもまだなし。パッと見、このまま続けて良さそうなのですが、化粧室は隔階閉鎖状態。女子化粧室の扉から男性係員が出てきて?と思っていたところ、その扉の向こうは更に通路となっていて壁一面ベニヤ張り。楽屋に通じる扉もあるので間違って他の扉を開けないように係り員が配置されていたので、さすがに再度閉鎖して完成させないといけない状態ではありました。

 音響改善のため高くした天井 ↓修復前(2階席より撮影) ↓修復後(平土間より撮影) 
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 平土間前方で聴いていると台詞もPA使用感が全くなく自然に聞こえました。ただし一か所だけ明らかにエコーをかけた部分があり、上階では常にPA使用感があったかもしれませんし、逆に台詞が聞き取りにくいことがあったのかもしれません。
 歌手にとっては間違いなく歌いやすい劇場になったはずです。

 劇場のボックスオフィースは劇場内部ではなく、左側にプレハブの小屋が設けられていました。改修前は内部にあった気もするのですが、7年以上前のことでシラーと混同しているかもしれません。

 今シーズン最も楽しみなのは『トリスタンとイソルデ』。来シーズン以降はヘアハイムの『ローエングリン』と数年前に話題になった『マイスタージンガー』をぜひ再演してほしいと願っているのです。

 以上、なんもかんもてんこ盛りでした。
 

 
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ミランダ・・Opéra Comique・・2018/10/5 [オペラ]

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Direction musicale Raphaël Pichon
Mise en scène Katie Mitchell
Librettiste Cordelia Lynn

Miranda Kate Lindsey
Prospero Henry Waddington
Anna Katherine Watson
Ferdinand Allan Clayton
Le Pasteur Marc Mauillon
Anthony Aksel Rykkvin / Marius Valero Molinard

Chœur et orchestrePygmalion
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 演出家ケィティ・ミッチェルと指揮者ラファエル・ピションがシェークスピアとパーセルの作品をもとにして新しく創作したセミオペラです。(休憩なし1時間半)

 『ミランダ』は『テンペスト』に登場するプロスペローの娘の名前ですが、新作なのであらすじの調べようもありません。オペラ・コミックのH/Pでミランダの葬式から始まるということと、ミランダの人生が父親であるプロスペローに支配されたものだったということに焦点をあてた作品であることというくらいしか分かりませんでした。
 しかし、新作に限らず、何も調べずに臨んだり、あらすじを調べても鑑賞するときには忘れてしまっている<(_ _)>ときもあったりなので、いつもとそれほど変わらないだろうとイージーゴーイング。フランス語の字幕だけというのが少々不安でありましたが、分からなくても音楽を聴くだけでも満足できるに違いないということもありました。もともと何故この作品に興味を持ったかと言えば、ボルドーで鑑賞したロッシの『オルフェオ』がすごく良かったピション&ピグマリオンの公演だからです。

 英語の作品ですが[猫]の能力では歌詞は聞き取りにくいものです。しかし曲の間にPAで台詞が入ったので、それほど難解ではありませんでした。舞台は思わぬ方向に進んだので少々混乱しながらも、次はどう展開するのかという興味で最初から最後まで集中して鑑賞することができました。
 舞台は教会内部で展開。ミランダのお葬式に集う人々。葬儀が進行する中、突然鳴り響く不穏な音、乱入してきた挙動不審者、テロ?教会ジャック??ミランダは自分を支配し続けた父親に対して反旗を翻すべく大芝居を仕組んでました。
 結末はハッピーエンドではありません。何とも言えない複雑な気持ちに支配される結末ではありますが、父にも娘にも寄り添う人がいたのが救いでした。

 演出は教会内部の出来事ということが衝撃的で異様な緊張感をもたらし、思いもよらぬ場面では登場人物全員スローモーションになるという手法が観ている者の感覚に合って効果的でした。後日振り返ると現実味が希薄な設定にも思えるのですが、現代の問題をも内包する作品内容は考えさせられるものでした。

 パーゼルの『テンペスト』と『インドの女王』からの曲を再構築し、リブレットも新しい作品です。前日に聴いたファソリスの『タメルラーノ』と同様、ピション&ピグマリオンの演奏は古楽らしくテンポを大きく変えないのが好ましく、静かな緊張感を紡ぎだしてました。音が心地良いのも魅力です。
 最終日ということもあってか歌手の人達も完成度が高く、複雑な後味がありながらも満足感と充実感が残りました。
 
 考えてみると『リナルド』『タメルラーノ』も最終日。リンデンのオープニング公演と合わせて鑑賞できると考えて組んだ日程でしたが、いずれも完成度が高い公演だったことは幸運でした。

 元々フランスは古楽が盛んということでクリスティ&レザール・フローリサン、ミンコフスキ&レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル、ルセ&レ・タラン・リリク等々、錚々たるものがありますが、1984年生まれと若いラファエル・ピションの率いるピグマリオンも要注目です。

 

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タメルラーノ・・Teatro alla Scala ・・2018/10/4 [オペラ]

今回の旅行で最も良い席での鑑賞だったのに、残念ながら写真は失敗<(_ _)>
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Conductor Diego Fasolis
Staging Davide Livermore
Teatro alla Scala Orchestra on period instruments

Tamerlano Bejun Mehta
Bajazet Kresimir Spicer
Asteria Maria Grazia Schiavo
Andronico Franco Fagioli
Irene Marianne CrebassaLucia Cirillo
Leone Christian Senn

 ヘンデルはなんといっても様式感のある歌唱を満喫することが醍醐味。その点では既にヴェルサイユとザルツブルクで堪能したことはありますが、今回は演出つき本格的舞台での初鑑賞です。
 演出つきなのですから様式感といった面だけでなくドラマとして伝わるものがあることを期待して臨むのは当然といえば当然。これが期待以上、心揺さぶられる悲劇となってました。

 元々バヤゼットの死という重さのある作品ではありますが、演出をロシア革命に設定することにより、元の話よりも更に悲しみは深く、主役はアステリア、準主役はアンドロニコ、タイトルロールのタメルラーノは革命軍の主導者とあって、今回は悪役といった印象が残った公演でした。
 
 冒頭から凍てつく厳冬のロシアの雰囲気に満ちた舞台。セットと衣装は一流歌劇場としての誇りを感じるもの。その他大勢が演技する戦闘シーンは時にスローモーションというだげでなく、静止、巻き戻しを交えて繰り返され、その悲惨さを強調。映像で表現するようなシーンを実際に人が演じるといった趣向に保守的なイタリアの人は慣れていないのか?最初は巻き戻した動作で笑いが漏れてしまいました。確かに最初こそ少々違和感がなきにしもあらずではありましたが、すぐに慣れて煩わしいというほどではなく背景と化し、戦闘の凄惨さを表現するのに映像以上の効果があったように思えました。おそらくダンサー達がこのリピート演技をしていたと思うのですが、戦闘シーンなので倒れたり走ったりと激しく動いているにもかかわらず、音はほとんど気にならず、しかも何人もの人達が音楽に合わせて一斉に静止、巻き戻し、再生を繰り返すのですから、芸術的なプロのダンスといった様相でした。それに歌手の人達はそれが煩わしいと思える程度の実力の人達は皆無。舞台中央で集中して歌うことが多かったのに歌合戦という印象が皆無だったのもリピートダンスが自然な流れを創る効果になっていたように思えました。
 演出について重箱の隅をつつかせてもらうと、一幕、バヤゼットとアステリアが列車で護送されていくという設定で、列車が動いているように見せるため、監視兵が縦に小刻みに動いていたのが少々奇妙ではありました。列車は横揺れ、縦揺れは車。こんな些細なことが気になったくらいで、全体としては非常によくできた演出でした。
 
 歌手についてですが、冒頭アナウンスあり。クレバッサが歌えない状態なので代わりにチリッロが歌うとのこと。舞台上で他の人が演技をしてチリッロが舞台端で歌うという形での上演でした。前日に引き続きのキャストチェンジで、考えてみると夏に観たアイーダから数えるとキャストチェンジ三連荘です。
 チリッロは様式感が見事な美しい歌を聴かせてくれて、古楽を中心に活躍しているであろうことが分かるものでした。
 演出つきで古楽作品やベルカント作品を鑑賞する場合、様式感と劇的信憑性のバランスが気になることがあります。様式美で溢れているのに物語として感情移入できない場合もあるからですが、今回の歌手の人達は全体として劇的信憑性と様式美がバランスよく堪能できて満足感が高いものでした。
 劇的信憑性に重きを置いたように思えたのはバヤゼット役のシュピチェル。どこかで聴いた気がすると思ったらちょうど1年前にここスカラでバジリオ役で聴いてました。その時も好演してましたが、今回の入魂のパフォーマンスは胸を打たれるものでした。高音が良い声で素晴らしく通る人で、その割に中低音が弱いのが気にはなったのですが、怒りと焦燥感と娘への愛情が複雑に交錯する様子は鬼気迫るもの。気持ちが入りすぎて様式感という面では微妙でしたが、それよりも悲劇性を高めた功労者として賞賛したいところです。
 メータとファジョーリはザルツブルクのコンサート形式で聴いたことがあり、その時は声量といった面で差があったのは否めませんでしたが、今回は収容人数はほとんど変わらないサイズの劇場にもかかわらず、平土間前方で聴くかぎりはほとんど差は感じませんでした。この二人を演出つきで聴くと改めてそれぞれ適役だということを納得することとなりました。
 ファジョーリは繊細かつまろやかなアジリタを披露したのはもちろんのこと、舞台センスが良いので劇的信憑性といった面でも複雑な内面を自然体でこなす演技が見事。今シーズンはこの後エリオガバロ以外は演出つきの舞台をやらないのが残念に思えてしまいます。
 メータは年齢的にいっても超ベテランの域だと思うのですが、よく通る美声は相変わらず。アジリタも輪郭がはっきりして揺るぎなく、威厳を醸し出してました。今回の演出では占拠した皇帝邸で猥雑にたむろした革命軍兵士たちの真ん中で堂々とふんぞり返っている様相に、悪役の印象が強くなってましたが、それこそが演出のコンセプトといったところ。鑑賞後は感情移入しすぎて寛容さはもっと早く示せヨと思ってしまったしだい。
 二人のCTの重唱は聴きごたえ十分でもっと長く聴いていたかったくらいでした。
 ただこの二人については既に何回か聴いているということもあってか、今回最も印象に残ったのはアステリア役のスキアーヴォ。悲劇の皇女としてイメージぴったり。透明感のある華やかな歌声は様式感を保ちながらも活き活きとして、皇女としてのプライドや意志の強さも感じるもの。感情移入せざるをえず、最後の四重唱を虚しく聴くことになったのでした。

 この劇場で本格的バロックを上演するのは初めてらしいのですが、オケはスカラのオケと指揮のファソリスの古楽オケ、イ・バロッキスティの混成とのこと。古楽器でも相変わらず美しい音を堪能。ファソリスはローザンヌの『アリオダンテ』でも聴いたことがありますが、その時と同様、古楽らしくテンポを大きく変化させることなく譜面とおりといった演奏は好ましく、1幕終了時、楽譜を高々と上げたのも譜面どおりというポリシーを感じました。
 バロックには劇場のサイズが大きすぎる気がして席は平土間前方を取りましたが、上階の席ではどういうふうに聞こえたかは?
 
 開演夜8時。終演は12時半近くだったので、カーテンコールもそこそこに劇場を後にしましたが、既に地下鉄は走ってなく、タクシーでホテルまで行くことに。
 以前は働いている人達との契約で夜12時を超えることはなかったはずで、ワーグナー上演時ではオケのメンバーがあわててオケピを後にしていたのを思い出しましたが、ペレイラ総裁になってから労働条件が変更になったのでしょうか。いずれにせよ遅くまで上演するには環境が整っていないのは困ったものです。開演時間を1時間早めれば問題ないとも思うのですが、夕食はゆっくりと取ってからでないとという土地柄なのでしょうか?
 公演は大変満足できたので、今後も古楽を取り上げてほしいと思うのですが、来シーズンはなし。ということで来シーズンは来る機会はないかもしれません。
 


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リナルド・・Bockenheimer Depot・・2017/10/3 [オペラ]

 4,6,8月とワーグナーは結構聴いたので、しばらくは古楽中心で鑑賞します。
 10月はリナルド、タメルラーノ、ミランダの古楽3連荘、そして7年も待ったベルリン国立歌劇場、最後はオマケでバレエの大地の歌を鑑賞してきました。フランクフルト→ミラノ→パリ→ベルリン→バーデン・バーデンと毎日移動で大変だとは思ってましたが、ベルリンまでは順調で問題なし。ベルリンは時折強い風雨で変な天気だと思ってはいたのですが、この日、北ドイツは悪天候で鉄道が止まって大騒ぎだったとのこと。当然翌日も影響が残り、キャンセルの列車が多く中央駅のトラベルセンターは長蛇の列。幸い乗る9時35分発の列車は予定通り出発したものの、途中で止まったりしながらの運行。フランクフルト乗り換えで14時半頃到着するはずが、マンハイム乗り換えで17時半頃到着と3時間遅れでバーデンバーデンに到着。こんなことならオマケの公演はパスしても良かったかと一瞬思いましたが、この日帰る予定だったとすると飛行機に乗り遅れていたかもしれず、結果オーライです。天候によるイレギュラーは万歳お手上げ。無事に最後の公演も観れたのはラッキーとプラス思考に限ります。
 どの公演も充実して満足感は高かったのですが、なんだかんだで帰ってからドッと疲れがでること甚だしく、いつにも増して書く気になれず・・・2か月くらいかけてポツポツと書くことになると思います。
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Musikalische Leitung  Simone Di Felice
Regie  Ted Huffman

Rinaldo  Jakub Józef Orliński
Armida  Elizabeth Reiter
Almirena  Karen Vuong
Argante  Brandon Cedel
Goffredo  Julia Dawson
Eustazio  Daniel MiroslawDmitry Egorov
Frankfurter Opern- und Museumsorchester
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 到着日。フランクフルト歌劇場の公演ではありますが、会場のボッケンハイマー・デポはかつて市電の車庫だったところで、外観もいかにも車庫なら内部も梁がむきだし。ボーフムのヤールフンデルトハレほど大きくはないものの似た雰囲気です。
 客席は段差が結構あって後方でも視界に全く問題なし。客席数が350ほどしかない上に人気が高かったようで、補助の客席として段のある客席の両脇に10数席ずつ折りたたみ椅子が置かれてましたが、平面の床なのでそこはあまりよく見えなかったことでしょう。
 オケピといえるような囲いはなく、最前列の人達の目の前でオケのメンバーが演奏している状態でした。
 
 冒頭アナウンスがあり、バスのミロスワフが前の公演で肩を痛めたということでキャストチェンジ。代役はカウンターテノールのエゴロフで、オケの後ろで歌って舞台上で他の人が演技するという形での上演でした。オリジナルはカウンターテノールかアルトなので、様式感といった意味ではカウンターテノールのほうが合っているのかもしれませんが、バスが歌うとどういった雰囲気になるのか聴いてみたかった気もしました。

 この公演で肩を痛めたとのこと、始まってすぐにさもありなんと思えた演出の公演でした。幕はなく、床が黒い舞台は客席側にかなり傾斜していて、冒頭から舞台上で激しく剣を交えた二人が転がるように戦うのには、そのままオケに突っ込まないかと心配するほど。これが舞台とオケの間に細い溝があり、実際にそこに転がり落ちるときもあれば、這い上がるように舞台に登場したりするという仕掛け。出演者全員若手といった雰囲気でしたが、若くて身体能力が高いからこそできる演出で、それが魅力の一つと言ってよいほど他はセットなど何もなし。傾斜に沿うように足の長さが違う椅子や持ち運びのできる木などの小道具類が用いられただけの非常にシンプルな演出でしたが、スモークを使用したり、『ロード・オブ・ザ・リング』のゴラムのような不気味な動きをするダンサー達、衣装や被り物などで魔女ものの雰囲気を創り上げていたのは巧みでした。
 ただ実際にケガ人が出たという事態に至っては、再演時には安全第一で、舞台の傾斜を緩やかにする等の対策を講じてほしいものです。

 歌手はタイトルロールのオルリンスキと代役のエゴロフ以外はフランクフルト歌劇場のアンサンブルのようでしたが、時に激しい動きが要求される演技面でもチームワークの良い完成度の高さで、それぞれの役に入り込んだ歌手たちの歌はヘンデルらしい様式感といった面においても文句なしでした。
 役柄から当然と言えば当然ですが、目立っていたのはタイトルロールのオルリンスキとアルミーダ役のライター。
 オルリンスキは1990年生まれとのことなのでまだ27歳。しかし既にエクサンプロヴァンスの音楽祭でも歌っているだけあって歌の実力はもちろんのこと、ダンサーとしても活躍できるという運動能力の高さは舞台人として大きな可能性を感じるものでした。今回の演出では斜度のある舞台上でも戦闘シーンや捉えられて引きずり回されるシーンではクルクルクルと前転後転三昧。四つん這いの姿勢で下を向いて歌っても床の素材が反響板になっているかのごとくきれいに声が通って、劇的信憑性と様式美の両方をバランスよく表現できる逸材に思えました。これだけ歌って動ける人がいればセットにお金をかける必要もなく演出の幅が広がるというもので、実際この新制作『リナルド』はオルリンスキあっての演出といったところでした。
 魔女ものとしてアルミーダ役が弱いと面白味が生まれませんが、ライターの歌い方や動作がいかにも悪だくみしそうな雰囲気でしっかりと公演のキーパーソンの役割を担ってました。

 演奏はフランクフルト歌劇場と古楽オケの混成でしたが、旧市電車庫はバロックに丁度よい音響空間で心地よいものでした。

 ただ演奏が心地よすぎたせいか否か?演奏のせいにしてはいけませんが・・・惜しむらくは・・・・到着日とあって後半の途中から瞼の重みに耐えかねて目を開いていられなくなってしまいました<(_ _)> 決して面白くなかったわけではないのですが、大きな読み替えがある演出ではなく、脳への刺激が希薄ではありました。それにしても、いつも眠くなるときは黒目が瞼に隠れようとして白目をむくパターンだったのに、今回は瞼が重くて耐えられなかったという事実にガックリ。目の周りの筋肉が衰えているということです。ある年齢を過ぎると衰えを自覚していくことは避けられないことですが、元気なうちにあちこち行っておかなくてはとますます思ったのでした。

 それでも耳だけは起きていた気がしていて(気がしているだけかも?)最後は頑張って目を開けました。もともと十字軍のエルサレム奪還という話よりも魔法オペラとして娯楽性の高い作品です。結末も元の話は古楽にありがちな不自然なハッピーエンドですが、そこは変えてました。これがアルミーダの末路はしっかりと見とどけたのですが、アルガンテはどうなったのか?瞼の重さが自分のことながら恨めしい公演でありました。

 ところで演出の手法として要所要所にスローモーションを取り入れてましたが、今回の古楽3連荘は演出家が違っても全ての公演で同様の手法が見受けられ、流行りのようでした。演出家がお互い影響しあうということを実感したのは初めてではありません。時に同じ手法を何回も見ると新鮮さが薄れてくるものですが、今回鑑賞した3公演については違和感なく、どれも有効的な手法に思えました。

 カーテンコールは賞賛に溢れてました。
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ドン ジョヴァンニ(コンサート形式)・・・NHKホール・・・2017/9/9 [オペラ]

指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
ドン・ジョヴァンニ:ヴィート・プリアンテ
騎士長:アレクサンドル・ツィムバリュク
ドンナ・アンナ:ジョージア・ジャーマン
ドン・オッターヴィオ:ベルナール・リヒター
ドンナ・エルヴィーラ:ローレン・フェイガン
レポレッロ:カイル・ケテルセン
マゼット:久保和範
ツェルリーナ:三宅理恵
合唱:東京オペラシンガーズ
NHK交響楽団

 ほとんど日本では観に出かけることはないのですが、お誘いがあったので行ってみました。これが予想していたよりもずっと良い公演で、誘ってくださった方に感謝しなくてはいけません。

 コンサート形式といっても舞台に置かれたのは譜面台ではなく、横に並んだ2台のベンチシート。簡素ながら現代的な洒落っ気と茶目っ気のある演出つきの上演でした。
 N響の上手さは想定内ではあるのですが、とても良いと思えたのは滝在適所の歌手が揃い、全体としてチームワーク良く完成度が高かったことで、この公演を含めてたった三公演の上演というのがもったいないと思えたのでした。
 
 歌手の人達はそれぞれのキャラが立っていて、アンサンブルとして重唱も聴きごたえありという充実ぶり。
 中でもケテルセンのツボを心得た舞台センスは演出の面白さを伝えていて、公演のキーパーソンでした。
 オッターヴィオ役のリヒターは2012年に同役とタミーノを聴いたことがありますが、以前より声の芯が太く硬質の声になっていて、ますます男前度アップ。

 メリハリのある明快な演奏は速すぎず遅すぎず、地獄落ちも軽すぎず重すぎずだったのが演出に凄く合った絶妙の匙加減。公演の要であるパーヴォ・ヤルヴィの上手さを感じたのでした。



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アイーダ・・・Großes Festspielhaus・・・2016/8/16 [オペラ]

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Riccardo Muti, Musikalische Leitung
Shirin Neshat, Regie

Roberto Tagliavini, Der König
Ekaterina Semenchuk,Daniela Barcellona, Amneris
Anna Netrebko, Aida
Francesco Meli, Radamès
Dmitry Belosselskiy, Ramfis
Luca Salsi, Amonasro
Bror Magnus Tødenes, Ein Bote
Benedetta Torre, Oberpriesterin

Konzertvereinigung Wiener Staatsopernchor
Ernst Raffelsberger, Choreinstudierung
Wiener Philharmoniker
Angelika-Prokopp-Sommerakademie der Wiener Philharmoniker, Bühnenmusik
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 夏の旅行の最終日。ヴェルディの場合、耳が虚弱体質の[猫]にありがちなのは「コーラスがうるさい」などと言い出すこと。耳が丈夫な人や難聴ぎみの人には全く意味不明のこのようなことを言うことのないように、席は久々に奮発して平土間。

 冒頭で係員が登場。キャストチェンジのアナウンスがあり、セメンチェクの代わりにバルチェロナがアムネリスを歌うとのこと。代役としてこれ以上の人を望むべくもありません。この日の朝到着したばかりで尚且つキャリアとしてそれほど歌い込んだ役ではないと思うのですが、煩雑な演出ではなかったこともあってか自然に違和感なく見事に溶け込んでいたのはさすがです。
 ネトレプコはアイーダをムーティ先生の元でロールデビューできたことは幸運以外の何物でもないでしょう。当然アドヴァイスがあったことと想像しますが、コントロールされた弱音の悲哀の表現はかつて聴いたことがないほど見事で、新たな境地に達したのではないかと思えるほどでした。
 メッリについても最初のアリア『清きアイーダ』で同様のことを感じたのですが、最後を譜面通り弱音で歌ったことで譜面通りであるからこそ伝わるせつなさがあるのを実感したのでした。
 以前ナブッコのタイトルロールで聴いたことがあるサルシ。演出がほとんどコンサート形式で棒立ちで歌うことの多かったナブッコの時に比べると、今回は自然な演技を伴ってずっと好印象でした。
 ランフィス役のベロゼルスキーも文句のつけようもありません。
 
 演奏は優しく穏やかに歌に寄り添い、ここぞというときは解き離れたように盛り上がるさまは、必要以上に誇張することなく原典を大切にするムーティー先生ならでは。[猫]の最大の願いは最初の一音から最後の一音までムーティー先生の音楽を拍手が被ることなく聴かせてちょーだい!ということでしたが、観客全員が同様の願いを持って臨んだのかもしれません。念願叶ったことは大いに喜ばしいことではありましたが、『アイーダ』という戦禍の悲劇に観客はアリアの後即拍手、幕に反応して拍手という反応ができる公演ではありませんでした。

 イラン出身の演出家ネシャットは古代エジプトの悲劇である『アイーダ』を時代や場所を特定しない形で普遍的な戦禍の悲劇に変えることに成功してました。舞台装置のみならず、その他大勢の登場人物を徹底的にクールに演出することで、戦争が勝者の心も敗者の心も凍らせることを伝え、主要登場人物の熱い心と深い悲しみを浮き出すことにも成功していました。特に印象的だったのは凱旋の場面。勝者がじっと固まってひな壇に座っている冷たさは感情のかけらもない人形のようで、それが観客と向かい合っていたために観客を映す鏡のようでもありました。舞台が回転して背後に捕虜の姿が見えたとき、深読み癖のある[猫]には、こうしている今も戦禍で苦しんでいる人がいることを忘れないでほしいと静かに訴えているようにも思えたのでした。
 セットの素材も考慮されていて、特に最後の場面では、牢が見た目はシンプルな白い箱であっても反響が素晴らしく、中で歌うアイーダとラダメスの重唱が美しく際立つさまが強く印象残ったのでした。
 欲を言うと場面転換で間が開いてしまうのが少々残念ではありましたが、些細なことではあります。
 それにイタリア伝統の一列横並びもあったのですが、非常にクールな演出だったことと、音楽にブンチャッチャッ感が希薄だったことで三輪トラックやボンネットバスを思い浮かべるようなこともありませんでした。もしかするとブンチャッチャッと一列横並びが重なると脳内で昭和ノスタルジックモードが入ってしまうのかもしれません。

 カーテンコールは賞賛に溢れていたのは言うまでもありません。
 ムーティー先生は今後演出つきの公演を振る機会がないかもしれないので、この公演に臨めたことは幸運でありました。

 今回の旅行で観たザルツブルクの三公演は、テロや戦禍の悲劇ということで世相を反映した作品ばかりでしたが、生きている芸術のあり方として自然なことだと思います。
 娯楽性の強い作品や時に知性に病ダレがつくようなバカバカしい作品も好きではありますが、ザルツブルクという国際的な音楽祭として今後も注目していきたいと思わせる姿勢が伺えた今年の音楽祭でした。

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マイスタージンガー・・・Bayreuther Festspielhaus・・・2017/8/15 [オペラ]

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Musikalische Leitung Philippe Jordan
Regie Barrie Kosky

Hans Sachs, Schuster Michael Volle
Veit Pogner, Goldschmied Günther Groissböck
Kunz Vogelgesang, Kürschner Tansel Akzeybek
Konrad Nachtigal, Spengler Armin Kolarczyk
Sixtus Beckmesser, Stadtschreiber Johannes Martin Kränzle
Fritz Kothner, Bäcker Daniel Schmutzhard
Balthasar Zorn, Zinngießer Paul Kaufmann
Ulrich Eisslinger, Würzkrämer Christopher Kaplan
Augustin Moser, Schneider Stefan Heibach
Hermann Ortel, Seifensieder Raimund Nolte
Hans Schwarz, Strumpfwirker Andreas Hörl
Hans Foltz, Kupferschmied Timo Riihonen
Walther von Stolzing Klaus Florian Vogt
David, Sachsens Lehrbube Daniel Behle
Eva, Pogners Tochter Anne Schwanewilms
Magdalene, Evas Amme Wiebke Lehmkuhl
Ein Nachtwächter Karl-Heinz Lehner

 この日だけバイロイトへ。この夏の旅行で最も楽しみにしていた『マイスタージンガー』です。天気は良かったのですが、2幕途中で外は大嵐になってしまい木に雷が落ちたとのこと。それでも休憩時にはほとんど風雨はおさまっていたので助かりました。

 席は平土間後方、以前『ワルキューレ』では音が頭上に届かずに少々不満だったのですが、その時とそれほど変わらない位置での鑑賞。これがコスキー演出の舞台セットは両サイドと奥が常に壁で囲まれたせいか、ふわっとした音に包まれての鑑賞となりました。それでも演出によっては少々物足りないと感じることがあるかもしれませんが、今回の演出にはすごく合っていて、ジョルダン(ヨルダン)指揮のやさしく彩り豊かな演奏に包みこまれた作品は、甘酸っぱい香りのする夢見心地の『マイスタージンガー』といった雰囲気の秀作になってました。
 
 何故甘酸っぱい香りがするかといえば、ドイツの歴史、あるいはワーグナーの個人史を語る上で影の部分である反ユダヤ主義が表現されている点で、ユダヤ人という設定のベックメッサーが苛められることといったら見ていて胸が痛くなるほど。それをコスキーは決してこの作品の喜劇性と本質を損なうことなく、最後はドイツ芸術、ワーグナー芸術を讃えていたことに感動しました。
 2幕終盤、民衆から苛められて膝をかかえてしゃがみこむベックメッサーの頭にユダヤ人の頭の風船を重ねて巨大に膨らませたのは、同じユダヤ人であるコスキーの「オラ達はどんな目に合っても負けない!」という意地の現れかと思ってしまいました。しかし、その風船がしゅ~~~んとしぼんでいく様子に大戦時の受難を思い起こし、これまた胸が痛くなってしまったのでした。

 冒頭はワーグナーとゆかりの人々が集うヴァーンフリート荘、ワーグナーがザックス、コジマがエファ、リストがポーグナー、ユダヤ人指揮者レヴィがベックメッサー、ヴァルターが若き日のワーグナーといった具合で始まった舞台。3幕はニュルンベルク裁判のセットの中で民衆が集う歌合戦。大詰めでヴァルターが称号を拒否した直後、大勢いた人々が一斉にいなくなり、ワーグナー(ザックス)一人が残されるという展開。その有様はそれまでの全てがワーグナー(ザックス)の回想と幻想が交錯したもので、裁判という場で全てを告白したかのようにも思えたのでした。残されたワーグナー(ザックス)の様子は観客が感じた胸の痛みと同様の、あるいはそれ以上の痛みを覚えているかのごとく、最後の演説は苦悩に満ちて始まりました。それは全てを事実と認めたワーグナー(ザックス)が、それでも音楽のマイスターとして残した作品は芸術として認めてほしいと観客に訴えているかのようで、その後舞台後方から現れたオーケストラを指揮する誇り高いワーグナー(ザックス)の姿に感動する中、舞台は幕を閉じたのでした。

 夢見心地の『マイスタージンガー』と書きましたが、コスキーは制作するにあたって夢のお告げのごとく毎夜夢の中でワーグナーと話し合っていたのではないかと思うほどです。
 作品にはワーグナーの人生やコジマへの愛情、ゆかりの人々の人間関係がさりげなく描写され、見るたびに何か発見できそうな内容の緻密さがあるのもリピーターの多いバイロイトに相応しく、魅力満載の作品です。

 非常に凝った演出で、さぞかしリハーサルも大変だったかと想像できるのですが、これがコーラスの人達も含めて登場する人達のチームワークが良く、歌手の人達それぞれの細かな演技や歌は複雑な内面まで表現する素晴らしさでした。
 フォレのザックスはワーグナーが乗り移ったのかと思うほど。
 普通とは異なる複雑な演技を要求されるベックメッサーも自然体で活き活きとこなしてしまうのがクレンツレの上手さ。
 ヴァルターのフォークトはトゥルクで超サイヤ人、もとい、パルジファルを歌った疲れも見せず好演。ただカーテンコールで他の人達は何回も出てきたのに一度きりだったのはやはりお疲れぎみだったかもしれません。
 バーデンバーデンの『ラインの黄金』で譜面を見ながらローゲを歌っていたベーレは水を得た魚のごとく、ダフィットが完璧なハマリ役でした。


 このチケットを取るにあたり、発売初日にアクセスして45分ほどで入れたのですが、すでに『マイスタージンガー』だけはこの日を含めてほとんど売り切れ状態でした。しばらく粘っていると戻ってきたのでなんとか入手できましたが、来年もこの演目は入手困難であることは避けられそうにありません。




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ヴォツェック・・Haus für Mozart・・2017/8/14 [オペラ]

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Vladimir Jurowski, Musikalische Leitung
William Kentridge, Regie

Matthias Goerne, Wozzeck
John Daszak, Tambourmajor
Mauro Peter, Andres
Gerhard Siegel, Hauptmann
Jens Larsen, Doktor
Tobias Schabel, 1. Handwerksbursch
Huw Montague Rendall*, 2. Handwerksbursch
Heinz Göhrig, Der Narr
Asmik Grigorian, Marie
Frances Pappas, Margret
Salzburger Festspiele und Theater Kinderchor
Wolfgang Götz, Leitung Kinderchor
Konzertvereinigung Wiener Staatsopernchor
Ernst Raffelsberger, Choreinstudierung
Wiener Philharmoniker
Angelika-Prokopp-Sommerakademie der Wiener Philharmoniker, Bühnenmusik
Patrick Furrer, Leitung Bühnenmusik

 舞台セットは殺伐とした瓦礫の山。不穏な閉塞感に満ちた演出の設定は負傷兵やガスマスクをつけた人がうろつく戦禍の街。前日に観た『皇帝ティートの慈悲』と同じく現代の世相を反映した演出でしたが、戦禍の中で狂気へと導かれるさまは現実味のある陰鬱さに支配されていました。
 子供をどう演出するか、この演目のポイントとして注目していたのですが、ケントリッジは人形で表現。傍で人形を操るのは看護婦で、子供は障害か病気がある設定になってました。戦禍の街ということで当然空爆や銃撃が原因だったのかと想像せざるをえず、幕切れで舞台中央で動くことができずにいる子供にスポットライトがあてられブラックアウトしたのが痛ましすぎて後をひく悲劇でした。
 
 席は2階後方サイド。ほとんど見切れることなく舞台を見れたのは良かったのですが、この演出で鑑賞するのはもう少し舞台に近いほうが良かったかもしれません。全体的に常に暗い舞台でスポットライトによって主要登場人物を浮かび上がらせることが多かったのですが、暗い部分でも度々人が現れたり動いたりしていて、それが気になっても良く見えないというのが変なストレスになりそうでした。これにはもう全体的な印象として捉えたほうが自分自身の緊張感を保てそうだったので、早々に細部に拘ることは諦めて鑑賞しました。それで良かった気がしてます。

 歌手はタイトルロールのゲルネをはじめ、適材適所。中でも意外性という点で印象的だったのはグリゴリアン。どちらかというとマリーという役は生活に疲れきった中年といった印象を持ってたのですが、若々しく溌剌とした明るい声は戦禍の中に咲く花といった雰囲気さえあり、殺害されてしまう悲劇性をさらに大きくしていました。誘惑され、若さゆえに誘いに従ってしまったと考えれば話としても自然に思えました。

 演奏も緊張感があって良かったと思うのですが、強く印象に残るものではなくやや控えめ。ユロフスキはバイエルンの『炎の天使』以来2回目で、その時は抑制された演奏が尖った演出によく合って好印象でしたが、今回も控え目に思えたのは常にそういう演奏スタイルなのか?今後も聴く機会があることを楽しみにしたいと思います。


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二人のフォスカリ(コンサート形式)・・Großes Festspielhaus・・2017/8/14 [オペラ]

Michele Mariotti, Musikalische Leitung

Plácido Domingo, Francesco Foscari
Joseph Calleja, Jacopo Foscari
Guanqun Yu, Lucrezia Contarini

Philharmonia Chor Wien
Walter Zeh, Choreinstudierung
Mozarteumorchester Salzburg

 夏の旅行最大のオマケ公演。天下のドミンゴ様ご出演なのにオマケとはなんと失礼な!とお怒りの御仁もいらっしゃるかもしれませんが、もともとヴェルディに興味はないので正直に書きます。
 興味ないなら鑑賞するなヨ・・・ではありますが、夜の公演が20時とあって、昼間に観光といっても疲れるだけだし興味はないといっても『二人のフォスカリ』は聴いたことがないので、最安席だったら聴いてみても良いかと申し込んだところ、当たってしまったわけです。

 『二人のフォスカリ』って二人のテノールという意味もあるの?とトボけたことを書いてしまいそうな印象ではありましたが、ドミンゴ様はさすがにドミンゴ様でありました。2012年にここザルツブルクの『タメルラーノ』で聴いて以来5年ぶりですが、以前と変わらぬ声で観客を魅了した公演でした。
 ドミンゴ様登場時に演奏が続いているにもかかわらず、拍手がパラパラと出てしまったのはオペラ過疎地のご贔屓公演のようではありましたが、世界中の過疎地から大勢押し寄せてくるので仕方ないことなのかもしれません。もちろん[猫]も過疎地からの一人ではあります。

 鑑賞目的である『二人のフォスカリ』の印象はどうだったかというと・・・
ドンチャカドンチャカドンチャカドン!
ブンチャッブンチャッ・・・・・・・
ヴェルディはヴェルディだったとしか書きようがありません。
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皇帝ティートの慈悲・・Felsenreitschule・・2017/8/13 [オペラ]

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Teodor Currentzis, Musikalische Leitung
Peter Sellars, Regie

Russell Thomas, Tito Vespasiano
Golda Schultz, Vitellia
Christina Gansch, Servilia
Marianne Crebassa, Sesto
Jeanine De Bique, Annio
Willard White, Publio

musicAeterna Choir of Perm Opera
Vitaly Polonsky, Choreinstudierung
musicAeterna of Perm Opera
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 クレンツィス&ムジカ・エテルナの公演はこれまでコンサート2回とルールトリエンナーレの『ラインの黄金』、その他、オケはムジカ・エテルナではありませんでしたが、チューリッヒでクレンツィス指揮の『マクベス』を聴いてます。いずれも新鮮な印象の残る秀作でありました。
 当然今回も・・・・と思って臨んだわけですが・・・今回は集中して鑑賞することができず、途中でどうでもよくなってしまいました。<(_ _)>
 
 これまで鑑賞した公演と何が違ったのか?『ラインの黄金』や『マクベス』では演出家と指揮者のコンセプトが完全に一致し、手法に演出と演奏が相乗効果を生み出す秀逸さがあり、なおかつコンセプトを具現化できる適材適所の歌手が揃ってました。今回は演出と演奏のコンセプトの統一という面では間違いなく一致していたのですが、問題はその手法。そして歌手全員が適材適所だったかといえば、そうだった人もいれば、疑問が残った人もいたというところ。
 
 舞台セットは閑散として殺風景。演奏の極端なテンポの変化と頻繁に繰り返された長い間合い。さらには休憩後、クレンツィスもオケピに入り、客席が静まり返って始まるのを待っていたのですが、精神統一のためなのか?舞台セットが整わなかったのか?分かりませんが、結構長い間待ったのには、トットと始めましょうよ・・・と思ってしまい、[猫]の公演に対する集中はプッツン、プッツン、ついにはどうでもよくなってしまったという次第。

 演出は現代の世相を反映して、テロに至るまでの実行犯の苦悩と被害者の寛容さを表した読み替え。それを立場を変えて示したかったという意図があるかのように、テロ実行犯となるセストとその妹に白人、その他は黒人という配役でした。そういったキャストの選び方があっても良いとは思います。黒人の歌手の人は今までも何人も聴いてますが、特に書く必要もなかったので、感想でそれを記述した記憶はありません。今回も全員が音楽的にも適材適所だと思えれば気にも留めなかったかもしれません。ただし音楽面で少しでも疑問が残った場合、話は少々違ってきます。ザルツブルクという国際的な音楽祭で、メッセージ性が音楽面より重視されたかのような配役はいかがなものか?という違和感が残ってしまったのは否めません。

 これまでに鑑賞した公演が秀作だったがために否定的なことを先に書いてしまいましたが、もちろん良かった面も多々あり。演出に合わせて同じモーツァルト作曲の他の作品を挿入したり、木管奏者が舞台に上がってセストのアリアに寄り添って演技しながら演奏するなど効果的で面白い趣向でした。

 もともとタイトルロールよりもセストやヴィッテーリアのほうが目立つ作品ですが、今回は演出によって、セストが特に際立っていた感があり、クレバッサの好演があってこそといった印象が残った公演でした。遠目でみているとオーランド・ブルームの弟かと思うような美少年で、日本ではまだそれほど有名ではないですが、既に欧州各地の一流劇場で主役級を歌っているだけの実力が歌唱、演技共に備わっている人だと改めて思ったのでした。
 ヴィッテーリア役のシュルツもきれいな歌唱だったので調べたところ、バイエルン歌劇場のアンサンブルと判明。自然な安定感はやはり第一線で舞台慣れしているという印象でした。
 ただ今回のようなメッセージ性が強い演出だと目立つ役と目立たなくなってしまう役がでてきてしまう面があり、そのためか否かカーテンコールは一人ずつではなく全員一緒に出てきましたが、全員で制作した作品という心意気に満ちていたのは好感がもてました。

 ムジカ・エテルナはオケピの中でも基本の立奏は崩さず、演奏してないときだけ着席してました。
 またムジカ・エテルナの合唱の上手さはエクスで聴いた『イオランタ・ペルセフォーヌ』(今回と同じセラーズ&クレンツィスでしたが、鑑賞した日はクレンツィスが降板)を思い出しましたが、同じ演出家ということもあってか動き方がその時と似た雰囲気で、上手さも想定内といった印象にとどまってしまった感があります。

 以下は度々書いてしまうことですが・・・
 なにかとお聞き通し感だの想定内だのと言ってしまう[猫]のような観客は、制作する側にしてみれば、飽きっぽいだけの嫌なヤツかもしれません。制作する側とすれば成功した手法は次も生かしたくなるのは当然で、常に何か新しいものを創り続けなくてはならないとなると・・・やってられないっすヨ・・・という声も聞かれそうです。それに10割打者など存在しないように、どんな歌手でも指揮者でも演出家でもオケでも常に上手くいくとはかぎりません。鑑賞する側の個性もそれぞれですから、良いと思えるときもあればそうでもないときがあるのは自然なことであります。
 それでも興味のある公演を選んで聴いていると、来た甲斐のある公演のほうがそうでない公演よりはるかに多いので、制作する人達の才能はまだまださまざまに開花するに違いなく、今後も[猫]はそれを求めてあちこち出没します。
 

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パルジファル(コンサート形式)・・Turun Konserttitalo・・2017/8/12 [オペラ]

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Parsifal: Klaus Florian Vogt, tenor
Kundry: Karita Mattila, soprano
Gurnemanz: Matti Salminen, bass
Amfortas: Waltteri Torikka, baritone
Klingsor: Robert Bork, bass
Titurel: Juha Kotilainen, bass
Chorus Cathedralis Aboensis
Turun filharmoninen orkesteri
Ville Matvejeff, conductor
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 我ながらよくここまでやってきたものだと思ったフィンランドのトゥルクでの公演。14時からの公演だったのでヘルシンキに2泊して日帰り。H/P上で上演時間が4時間半となっていたのは疑わしいものだと思ってましたが、結局のところ主要登場人物以外の場面はカットした上演で終演は19時頃でした。
 一番の目的はサルミネンのグルネマンツ。サルミネンなら9月に来日してくれるのにわざわざそんなに遠くまで行くなんてアホちゃう?そう、アホです。否定しません。でも[猫]が聴きたいのはザラストロではなく、グルネマンツなのです。今まで残念ながらハーゲンなどハマリ役を歌っていた頃のサルミネンは聴いたことがなく、超ベテランになってからダーランド役で聴いたことがあるだけで、このまま聴く機会なく引退してしまっては少々寂しすぎる。以前のような歌声は無理であってもグルネマンツなら長老とあって今のサルミネンを聴くのには最適と思えたわけです。実際に1幕の朗々とした語りは劇的信憑性抜群でした。
 タイトルロールはフォークトですが、バイロイトのマイスタージンガーの公演が7日から15日まで間が開いていたのはトゥルクでパルジファルが2公演あるからでした。
 会場は客席数1002席とそれほど大きくなく、フォークトも以前より体格がよくなったせいか、2幕「アンフォルタス!」からの変身ぶりは以前よりもパワーアップして聞こえ、ほとんど超サイヤ人。フォークトのパルジファルは汚れなき愚者からの変身ものといった雰囲気でありますが、間違いなくテンションがグッと上がる醍醐味は他の人ではなかなか味わえないものです。ただフォークトのパルジファルを聴くのは6年ぶりで、声が以前より硬質になってきたせいか、汚れなき愚者のとき、どこから来たかな?という不思議くんたる所以の???感は以前ほど???ではなくなった気がしないでもありませんでした。
 この超サイヤ人と化したフォークトが相手とあってはロールデビューだったかもしれないマッティラは全力投球せざるをえないわけで 、まだ譜面は手放せない状態ではあっても気持ちは凄く入った渾身のパフォーマンス。歌い終わった後、席に座って肩で息をする様子にワーグナー歌いはアスリートだと思ったのでした。声が重くなったとはいえ、まだリリックな面があるのでワーグナーだったらジークリンデの方が合いそうではありますが、歌い方で妖艶で謎めいた雰囲気は出せるベテランですから、今後演出つきの公演でも聴く機会があることでしょう。
 他の出演者も良かったのですが、こういっては失礼ながらほとんど期待していなかったオケの演奏も感涙ものでした。
 オケの編成数は当然会場の大きさに合わせていて、全部の編成は確認できませんでしたが、低弦はチェロ、コントラバス共に5台づつ。演奏に深みが若干希薄で2幕冒頭のクリングゾルのシーンの凄みといったものも物足りなさがなきにしもあらずという面があっったのはやむを得ないのかもしれませんが、3幕の柔らかな救済感は感動的で、はるばるやって来た甲斐が大いにあった公演でした。

 さて、話は変わって会場に入って最も驚いたのは女子の多さ。[猫]の前列などは端から20名数えて男子の割合はわずか1割の2名。全体的にざっと見回しても6割以上、7割くらいは女子ではないかという程だったので、臨席の人にいつもこのような状況なのか尋ねたところ、カルチャー行事は女性のほうが興味を持つ人が多いとのこと。休憩時は当然トイレが長蛇の列でありました。
 さてさて、またまた話は変わって全く公演には関係ない話で女子男子という言葉について。女子男子とは成人にも使う言葉であるのは広辞苑でも明らかですが、何故か女子と言えるのは何歳までか?という意味不明な話があるので、あえて時々使おうかと思ったりしてます。ゴルフ場正会員の細則に「一定の年齢に達した男子とする」という記載があることが五輪関係で話題になってましたが、何歳まで?とは誰も疑問に思わないのに、どうして女子は何歳まで?ということになるのでしょうか?

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ジークフリート・・新国立劇場・・2017/6/14 [オペラ]

指揮 : 飯守泰次郎
演出 : ゲッツ・フリードリヒ

ジークフリート  ステファン・グールド
ミーメ  アンドレアス・コンラッド
さすらい人   グリア・グリムスレイ
アルベリヒ   トーマス・ガゼリ
ファフナー   クリスティアン・ヒュープナー
エルダ   クリスタ・マイヤー
ブリュンヒルデ   リカルダ・メルベート
森の小鳥  鵜木絵里 九嶋香奈枝 安井陽子 吉原圭子
管弦楽 東京交響楽団

 日本の公演はほとんど行かないのですが、オラが村の歌劇場にはたまには足を運ばなくてはいけない気がしてリングだけは参加してます。
 某所でリングを聴いたことで新国の株がアップ。この劇場は変な音響もなく良い劇場であることが何よりで、充分に楽しめた公演でした。

 今回も歌手陣は充実。演奏も前2作よりも良く、3幕こそここが聴かせどころとばかりの冗長感が若干ありましたが、歌手と一体となってワーグナーの世界観を伝えることに成功してました。

 グールドが全4公演に出演してくれることが大きな魅力になっていることは間違いありませんが、今回はアルベリヒとミーメ兄弟の迫真のやり取りも印象に残りました。

 演出については特に書くこともなし。全く個人的に勝手なことを言わせてもらえるなら、以前のウォーナー作品4作のうち前半2作を見損なっているので、またもどしてもらいたい気がしないでもないのです。
 
 演出はともかく、『神々の黄昏』も楽しみにしておきます。
 
 

タンホイザー・・Bayerische Staatsoper・・・2017/6/4 [オペラ]

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Musikalische Leitung Kirill Petrenko
Inszenierung Romeo Castellucci

Hermann, Landgraf von Thüringen Georg Zeppenfeld
Tannhäuser Klaus Florian Vogt
Wolfram von Eschenbach Christian Gerhaher
Walther von der Vogelweide Dean Power
Biterolf Peter Lobert
Heinrich der Schreiber Ulrich Reß
Reinmar von Zweter Ralf Lukas
Elisabeth, Nichte des Landgrafen Anja Harteros
Venus Elena Pankratova
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 バイエルンのタンホイザー、日本公演を控えているとあって話題にならないわけはありません。
 不思議くん、ユニコーンなどと呼んでしまうほど圧倒的な声の力を持っているフォークトのロールデビューですが、今までのヘルデンテノールとは明らかに異なるタイプであり、これからもこのようなタイプの人が現れるか分からないと思うほどであります。今までとは異なるがゆえに違和感があるという人がいるかもしれませんが、今までとは異なるからこそ新しい『タンホイザー』にしようという意欲が指揮のペトレンコにも演出のカステルッチにも全面的に現れていた公演でした。

 カステルッチの演出は異次元の声には異次元の空間をとばかりに時空を超えた演出。
 ペトレンコ指揮の演奏は美しい音で歌手の声に優しく寄り添うかと思えば、全てを包み込むように広がる様は変幻自在。今まで聴いた『タンホイザー』と異なる部分があるような気がしたのですが、ウィーン版を元に一部ドレスデン版を採用したとのこと。そういった意味でも今まで聴いたことがない『タンホイザー』でした。
 
 日本公演を控えているのであまり詳細を書くことはよろしくないのですが、抽象的でさまざまなことを示唆する演出は、その解釈において何が正しく何が間違っているということもなく、人それぞれの解釈が可能という柔軟性がありながら、大筋では多様性を示唆しつつ最後は観ているものを一種の悟りへと導くものでした。

 既に映像配信もあったようですし、人それぞれ解釈が可能な演出ということで、個人的な感想を書いたとしてもどうということはないでしょう。

 序曲では何本もの矢が放たれ、その的は目と耳。それは既存の作品の記憶を忘却へと導き、新しい『タンホイザー』になるということを示唆していると共に、光陰矢のごとく時空を超えるということも暗示していたようでした。
 一幕、肉欲の世界から脱出し、堕落から抜け出したはずが待ち受けていたのは無益な殺生をする血生臭い世界だということに愕然とするタンホイザー。価値観の多様性を示すことで、この演出はタンホイザーを単なるダメ男にはしていませんでした。
 二幕は古代。登場人物の衣装にはギリシャ風、エジプト風、アラブ風など民族の多様性が表れ、歌合戦に参加する騎士たちも日本の白装束のような衣装でした。
 三幕は数千年後、数百万年後・・・遥か遠い未来。
 タンホイザーとヴォルフラムの役柄設定が対照的だったのが印象的で、激昂のタンホイザーと達観のヴォルフラムといった様相。多様性の間で矛盾を抱え激昂するタンホイザーは思春期の少年のようであり、全ての感情を飲み込むように穏やかな抑制を保つヴォルフラムは諸行無常を唱える僧侶のようでした。
 フォークトのタンホイザーは初めてなので他の演出での歌い方と比べようもありませんが、シラーで聴いたゲルハーハーのヴォルフラムは言葉一つ一つを大切に感情を込めて歌い、正に詩人といった印象だったことを思い出すと、今回はそれとは明らかに異なる表現でした。
 ハルテロス演ずるエリーザベトは愛する人のために一人の女性であることを捨てた聖女。凛とした美しさは歌声と共に輝いてました。
 ツェッペンフェルト、パンクラトヴァをはじめ脇を固める歌手も盤石で、一言で感想を書くとすると、歌と演奏が創る世界に圧倒され続けた公演でしたが、それも歌手は常に舞台前方で自然体で歌に集中できる演出で、舞台後方でその他大勢が何かを示唆するように演技をするという手法が功を奏しているように思えました。

 終盤大きく広がる音楽の中、最後に舞台上で示された収束は「悟り」のような安息をタンホイザーにだけでなく観客にももたらすものでした。
 どれだけ多様性があろうとも生きとし生けるもの全てがやがてひとつになる。
 多様性が故に混沌とし続ける現代社会に一石を投じるかのような秀作でした。

 ペトレンコが2幕終了時、楽譜をめくってここだとばかりに指をさした後、オケピに残ってチェロのメンバー達と何か話し合ってました。表情は穏やかでしたが、何か問題でもあったのか?素人には皆目見当もつきませんでしたが、理想とする音楽を追及する真摯な姿勢が垣間見れ、そういった姿勢も今やベルリンフィルを担うまでに至った要因の一つなのかもしれないと思ったのでした。

 もちろんカーテンコールは賞賛の嵐。
 

 
 

ラインの黄金(コンサート形式)・・Festspielhaus Baden-Baden・・・2017/6/3 [オペラ]

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Marek Janowski Dirigent
Michael Volle Wotan
Katarina Karnéus Fricka
Johannes Martin Kränzle Alberich
Daniel Behle Loge
Gabriela Scherer Freia
Lothar Odinius Froh
Markus Eiche Donner
Nadine Weissmann Erda
Elmar Gilbertsson Mime
Christof Fischesser Fasolt
Lars Woldt Fafner
Mirella Hagen Woglinde
Julia Rutigliano Wellgunde
Simone Schröder Floßhilde
NDR Elbphilharmonie Orchester

 長い間病気療養していたクレンツレのアルベリヒ、尚且つヘンゲルブロックが指揮とあって楽しみにしていたのですが、ヘンゲルブロックが降板してしまいました。代わりに指揮を執ったのは、困ったときは任せろとばかりにご活躍のヤノフスキ師匠です。

 当然思い出すのはN響との春祭の公演ですが、その時の舞台配置とは左右が逆で、春祭では下手にあったハープは上手に、上手奥で歌っていた巨人兄弟は下手奥でした。他の歌手の人達はオケの前、エルダが上手側2階客席で歌うというのは同じでした。

 正確な音で演奏するという上手さではN響はさすがのものがありましたが、重心の低さはやはりドイツのオケです。[猫]の拘りである巨人族のサイズはN響ではアントニオ猪木くらいでしたが、余裕でハグリット以上でした。N響との演奏は反応が良すぎてサラサラと進んんでしまったというところでしょうか?2時間15分しかかかりませんでしたが、今回は2時間25分程でしたからほぼ中庸といったところ。もちろん歌手も違いますから、同じヤノフスキ指揮といっても大分印象は異なるものでした。

 譜面台は置かれていてもほとんどの歌手には無用の長物。自然に演技のような動作も伴って醍醐味は満点。
 充実の歌手陣の中で最もカーテンコールで賞賛を受けたのはクレンツレ。言葉を大切にして時に吐き捨てるように歌う上手さはさすがで、呪いの歌も絶品。スカラで同役で聴いたときを思い出しましたが、病気から完全復帰で一安心しました。スカラで聴いたときが初めてかと思っていたところ、最近になってザルツの『ディオニュソス』で主役のNを歌っていたことに気づき、難しそうな役も好演していたと思い出して、改めて存在の重要さを認識したのでした。
 クレンツレとほぼ同様に賞賛されていたのはフォレ。歌も姿も威厳がありながらそこはかとなく苦悩と憔悴感がにじみ出る様相は正にヴォータン。
 歌手陣の中で唯一楽譜を手にしていたのがローゲ役のベーレ。今夏のバイロイトのローゲですが、間違ってました。フローです。まだ楽譜があったほうが安心といったところでしょうか?フロー役のオディニウスもドンナー役のアイヒェも百戦錬磨といったところで完全に役に入り込み、方や腕を組み、方や腰に手を当ててお互い顔を見合わせ、お手並み拝見といこうじゃないかという様子でローゲを見ているのが現実の状況と重なってるようでした。これがなんとも新鮮な味わいのあるローゲで、若々しく清々しい知的な声は名探偵コナンか一休さんか?いや、若き日のシャーロック・ホームズか?といった雰囲気で、実際カーテンコールでクレンツレ、フォレに続いて賞賛されていたのがベーレでした。
 ファーゾルト役はリンデンの元アンサンブルであるフィッシェサー。この人のクリングソルは非常にクールで好みでしたが、久しぶりに聴いた声には温かみが感じられるようになっていて、ファフナー役のヴォルトの凄みと迫力のある声と対照的で、共に役に合ってました。
 他のキャストも盤石。
 ドンナーの雷は実際にアイヒェがハンマーを持ちアンビルを鳴らすという趣向も面白いものでした。

 ザルツブルクからの移動は結構大変でしたが、来た甲斐があった公演でした。


アリオダンテ・・Haus für Mozart・・・2017/6/2 [オペラ]

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Gianluca Capuano, Musikalische Leitung
Christof Loy, Regie

Nathan Berg, Der König von Schottland
Kathryn Lewek, Ginevra
Cecilia Bartoli, Ariodante
Rolando Villazón, Lurcanio
Sandrine Piau, Dalinda
Christophe Dumaux, Polinesso
Kristofer Lundin, Odoardo

Salzburger Bachchor
Alois Glaßner, Choreinstudierung
Les Musiciens du Prince – Monaco
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 相変わらず書くことが億劫です。1か月以上放置してしまいました。

 ザルツブルク聖霊降臨祭初日。H/Pに掲載された髭のバルトリの写真が興味を惹いた公演です。
 
 時代は現代に設定した演出でした。冒頭はほとんどの登場人物がHIPの衣装だったのにポリネッソだけが現代の衣装で登場したので少々戸惑いはありましたが、これが余興としてHIP様式のダンスを楽しむという設定で、登場人物もそれに参加するための衣装合わせをした状態のようでした。ロイ演出で一部HIPを取り入れたものなので、1月に見たチューリッヒの『アルチーナ』の二番煎じと言えないこともなしではありましたが、同性カップルが認められつつある現代を象徴するような内容で、バルトリが最も得意とするユーモアのセンスに満ちた演出でもありました。夏のザルツブルク音楽祭で再演されるので、多くを書くのは好ましくないかもしれませんが、1幕と3幕冒頭にイタリア語でナレーションが入り、ドイツ語と英語の字幕もあるので難解ではありません。
 『アルチーナ』より良くなっていると思ったのはダンス。結構ステップを早く踏んでいるにもかかわらず、音がほとんど気にならないのは大きな進歩でした。ダンサー達は全員男性ですが、白いドレスを身に着けたダンサー達の踊りはバロックジェスチャーを基本にした繰り返しの多いもので、軽快なテンポでありながら優雅なステップで愛らしく、一時期流行ったパラパラのようなノリの良さがあって大きな見どころの一つになってました。

 ユーモアのセンスはバルトリの真骨頂であるアジリタを堪能する場面でも発揮されていて、酒瓶を片手に酔っぱらいながら歌ったり、葉巻を吸いながら歌ったりという設定で楽しませてくれましたが、長いアリアの途中で間をとり、いかにも酔っているようにゲップを入れてふらついたり、タバコを大きく吸ってはく仕草を入れたりするのは観客を楽しませるだけでなく、途中息を整えることができて歌いやすい面もあったのかもしれません。
 そんな軽妙なユーモアがある一方で、ジネーヴラが苦しみを歌うアリアは非常にゆっくりとしてシリアスさを強調。演出に合わせてテンポを大きく変えたり間を取ったりする音楽づくりは演出と同様に現代的な印象となってました。
 指揮はローザンヌの『アリオダンテ』で好印象だったファソリスが執ることも楽しみではあったのですが降板。演出に合わせて多様に変化する演奏はローザンヌで聴いたものとは大きく異なり、今回はコンセプトが合わなかったのか?と勝手に想像してしまいました。

 個人的には古楽の演奏はあまり変化させないほうが好みではありますが、観客を楽しませる趣向満載の公演は初日であるにもかかわらず大変完成度が高く賞賛に値するものでした。

 演技が要求される演出ではあってもバルトリだけでなく他の歌手の人達も盤石。
 デュモーのポリネッソを聴くのは2回目ですが、今回も芯の太い声でアジリタはまろやか。古楽に興味を持ってからCTの人達を聴く機会が増えましたが、どの音域でも無理のない発声で安定感抜群の上、悪役の雰囲気たるや抜きんでるものがあります。
 ところでこのポリネッソ、悪知恵は働くのに剣は弱いというツメの甘さで憎みきれないところがありますが、無念さを表すがごとく最後にからくりがあるのも面白い演出です。

 カーテンコールは賞賛で溢れてましたが、終了後、閉じたカーテンの向こうから出演者の歓喜の声が聞こえました。リハなどもさぞかし大変であったろうと想像できる内容の公演で、初日成功の喜びも一入だったに違いありません。


 

神々の黄昏・・Deutsche Oper Berlin・・2017/4/17 [オペラ]

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ConductorDonald Runnicles
ProductionGotz Friedrich

Siegfried Stefan Vinke
Gunther Seth Carico
Alberich Werner Van Mechelen
Hagen Albert Pesendorfer
Brunnhilde Evelyn Herlitzius
Gutrune Ricarda Merbeth
Waltraute Daniela Sindram
1st Norn Ronnita Miller
2nd Norn Irene Roberts
3rd Norn Seyoung Park
Woglinde Martina Welschenbach
Wellgunde Christina Sidak
Floshilde Annika Schlicht
ChorusChor der Deutschen Oper Berlin

 トンネル・リングの最後の公演。
 奥行のあるトンネルはスケール感がありながら閉塞感もあり、奥に見えるトンネルの口から射す光が残された希望のようでした。
 終了後このトンネルの運命はどうなるのでしょう?どこか引き継ぐ劇場があればそれに越したことはないのでしょうが、これだけ奥行のあるセットとなるとなかなか難しそうです。別に前の記事で書いた蛇足の続きではないのですが、博物館で展示して誰でも通り抜けられるようにしたら大人も子供も皆ジークフリートやブリュンヒルデ気分を味わえて素敵です。奥行がかなりあるように見えるのですが、奥へ行くほどトンネルの半径は小さくなっているので、実際に通り抜けてみると意外とトンネルの長さは短いと感じるかもしれません。普通は「博物館に入る」とは後世に伝えるべき遺産として認められるということですが、この演出のセットだったらそれだけの価値がありそうです。それでもやはりこれだけ大きいものだと難しいのかもしれません。

 歌手の人達は全員、最後の公演ということで気概と緊張感を持って好演してましたし、コーラスも以前聴いた『ローエングリン』のときのようにグチャグチャに聞こえるというほどではありませんでした。

 この最後のリングを鑑賞しにきた観客は亡きゲッツ・フリードリッヒの遺産を敬愛してやまない愛好家が多く、オケのレベルだの音響だのは二の次でよいのです。

 終了後は別れを惜しむ沈黙が続き、カーテンコールは盛大に盛り上がったのは言わずもがな。

 伝説と言われるほどの名演出が終わってしまったという喪失感と5日間という短期間でリングを通しで鑑賞できたということの満足感、同時に忍耐が終わった解放感も押し寄せた[猫]でありました。

 ここは以前から大衆歌劇場という印象はありましたが、特にワーグナーについては見る劇場であって聴く劇場ではないです。[ふらふら]
 ワーグナー以外を聴いたときはほとんど気にならないので、ここはオーケストレーションが複雑でないイタリアものなどのオペラとバレエの公演に特化したほうが良いのではないかと思うほどですが、オケのレベルや音響がどうのこうのとブツブツニャーニャー言う[猫]のようなものはお呼びでないというだけのことかもしれません。
 よって、ここにワーグナーを聴きに足を運ぶことは2度とないとまでは言いませんが、当分遠慮しておきます。

 思いがけず何人かの方々とお目にかかれたのは幸いでした。

 

パルジファル・・Wiener Staatsoper・・2017/4/16 [オペラ]

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DIRIGENT Semyon Bychkov
REGIE UND BÜHNE Alvis Hermanis

Amfortas Gerald Finley
Gurnemanz Kwangchul Youn
Parsifal Christopher Ventris
Klingsor Jochen Schmeckenbecher
Kundry Nina Stemme
Titurel Jongmin Park
1. Gralsritter Benedikt Kobel
2. Gralsritter Clemens Unterreiner
1. Knappe Ulrike Helzel
2. Knappe Zoryana Kushpler
3. Knappe Thomas Ebenstein
4. Knappe Bror Magnus Tødenes
1. Blumenmädchen/1. Gruppe Ileana Tonca
2. Blumenmädchen/1. Gruppe Olga Bezsmertna
3. Blumenmädchen/1. Gruppe Margaret Plummer
1. Blumenmädchen/2. Gruppe Hila Fahima
2. Blumenmädchen/2. Gruppe Caroline Wenborne
3. Blumenmädchen/2. Gruppe Ilseyar Khayrullova
Stimme von oben Monika Bohinec
 
 この日リングはお休み。シラーでは『影のない女』でしたが、同じ演出をスカラで既に見たのでパス。エッセンの『預言者』とウィーンの『パルジファル』でどちらに行くか少しだけ迷いました。ウィーンの演出が以前と同じだったら間違いなくエッセンへ行ったのですが、ウィーンが新演出ということで5日間連続ワーグナーづくしに決めました。

 ヘルマニスの演出はウィーンにあるオットー・ワーグナー病院が舞台。グルネマンツとクリングゾルは医者、クンドリは精神を患っている人という設定ですが、現れたパルジファルの鎧にマントという姿はまるでタイムスリップしてきたようでした。舞台セットは中央に扉があって、その上にDie Zeit(時)と書いてあったことと、聖杯が脳だったことがポイントである気がします。Die Zeitという文字が今回の席からはセットの死角になって見えないことが多く、途中で見えたときにすぐにはピンとこなかったものの、見終わってしばらくして、そういえば書いてあったと思い出し以下のように解釈するに至りました。
 
 この演出が伝えたかったことは・・・時を超えて大切に守り敬うべきは人間の英知と精神
 
 パルジファルとクンドリは時を超えた存在。クンドリもパルジファルを誘惑する場面ではタイムスリップしたような衣装に替わり、最後の儀式でもこの扉から出てくる人々の中に古代の衣装を身に着けた人が混ざってました。映画だったらぼかしを入れたりしてタイムスリップを表現するところでしょうが、舞台だと少々違和感がなきにしもあらずではあります。
 グルネマンツは精神科医、クリングゾルは外科医という様相でしたが、二人とも治療の一環としてパルジファルを利用したというところで、その点ではグルネマンツ医師は失敗、クリングゾル医師が成功したということです。
 クリングゾルは悪者ではなく、クンドリに接するのもあくまで治療といったところで、シュメッケンベッヒャーもしっかりと歌っているものの、悪い印象を残すような歌い方ではありませんでした。アンフォルタスの傷が頭にあったのは、クリングゾル医師の医療ミスということでしょうが、パルジファルが聖槍を手にする場面は日本人が見ると・・・聖槍は脳トゥングか?・・・とツッコミたくなるものだったのもちょいと奇妙ではありました。ただクリングゾルはパルジファルを襲うどころか、聖槍を取ってくださいとばかりの動作を取ったのです。
 このように違和感やツッコミたくなるような場面がしばしばあり、理屈っぽい面もありますが、鑑賞する側に解釈する余地がある演出は悪くありません。アンフォルタスは死に、クンドリは死なずにDie Zeitと書いてある扉から去っていくというエンディングでしたが、クンドリが向かったのは過去か未来か?想像におまかせといった趣向も悪くないものでした。
 ワーグナー作品を同じ姓であるワーグナーが設計した病院を舞台にしたというだけでなく、時代設定がフロイトが生きていた頃ということでウィーンの人達にとっては更に意味深い演出なのかもしれません。
 
 カーテンコールで最も賞賛されていた歌手はユン。医者という設定は明晰に歌うユンの良さが光ってました。
 ベテランのヴェントリスの声の若々しさは数年前聴いたときより声にハリがあるかと思えたほど。
 クンドリがロールデビューのシュテンメはきれいすぎるという感想もあるようですが、声が重くなってきている感があり、きれいすぎるというほどではないと思えました。ただこの役はメゾの方が暗さ、翳りがあって合うという気はします。
 花の乙女たちはパルジファルの台詞Dies Alles – hab ich nun geträumt? どおりに夢の中の人達のようでしたが、髪型や衣装が少々薹が立った感があってピンとこない感じはしました。
 
 DOBのリングの途中で聴いたウィーンの演奏は正にオアシス。ビシュコフにも盛大な賞賛がありましたが、1幕では他の理由でストレスを強いられてしまったのが無念。途中で観客席からピッピッと電子音がしばしば聞かれ、その方向を見るとなんと写真を撮っているではありませんか(vv。。マナーを知らない一見さんと遭遇する機会がしばしばあるのがこの劇場のネックになるところです。1幕だけで2幕以降は集中できたのが不幸中の幸いでした。



 以下蛇足です。
 最近読み替え演出について否定的な評論を目にしたので、時を超えて守り敬うべきは人間の英知と精神といったこの公演の内容に絡めて書き残しておきます。

 評論は「博物館に入れる」ことへの考察とはなっているのですが、演出が無政府状態と批判し、
>「博物館に入れてはいけない」と主張する人にかぎってオペラを、それが誕生したコンテクストから引きはがして「博物館」に放りこんでいる
との内容には違和感しかありませんでした。無政府状態が良くないのなら取り締まる組織を作れということなのか?表現の自由はないということなのか?考えようによっては読み替えも博物館に入れる価値があるともとれるかもしれませんが・・・・。
 全く説得力のない評論でありましたが、読み替え演出を嫌う人達は原典にこだわりすぎて現代に生きる人間の英知と精神を軽視する傾向があるのではないでしょうか?
>ヴェルディ作品について時代設定や場所を変えてはヴェルディが作品に込めた精神性を含めた世界観から遠ざかる
とも書いてありましたが、こういう人はヴェルディの世界観はこうあるべきというものがあって、他の見方は認めないという排他的精神の持ち主としか思えません。地域限定でしかヴェルディの世界観は存在しえないのか?同じような経験をしている人達がその時代、土地と重ねることもいけないのか?どこか分からない、いつの時代か分からないことにして一般化することでより多くの人の共感を誘うこともあるのではないか?ある人にとっては意味不明であっても、深い意味を感じ取る人もいるのではないか?そういった可能性を考慮できないのは作品の可能性だけでなく鑑賞する側の知識や想像力をも過小評価しているのであって、このような批判はどれだけ見識があろうと宝の持ち腐れ、想像力の貧困さを露呈しているにすぎません。答えが一つしかないものに興味を持つでしょうか?知的好奇心を奪われることほど空しいことはありません。制作する側が思いもよらない深い意味を鑑賞する側が見出すことだってあるかもしれません。もちろん人それぞれ作品によって良し悪し、合う合わないがあるのは当然ですが、さまざまな解釈や感想があることこそが健全なのです。原典と伝統も尊重されるべきものではありますが、読み替えも同じように尊重されるべきものであって、自身の拘りや固定観念で関係ない読み替えと断定し、滑稽とまでいうのは偏狭的な見方と言わざるをえません。逆手にとれば滑稽だからこそ面白いという場合だってあって良いとさえ思います。
 このようなことは現在のドイツとイタリアの現状を鑑みれば既に答えは出ていることであって、今時の読み替え演出批判こそ滑稽のような気もします。
 今まで良いと思えたヴェルディ作品は全て読み替え演出でありました。演出家を目指す若者達も伝統重視だけで土地、時代を変えてはいけないなどの制約を課せられてやりがいを持ち続けることができるでしょうか?博物館に入るというのは古い伝統的な演出を指しているのではなく、制作する側にしろ鑑賞する側にしろ興味を持つ人が減少し、やがて上演機会が失われることへの警告なのです。

 基本的にオペラ、楽劇の本質は音楽、つまり聴覚こそが重要で演出は視覚です。作曲家の英知と精神を無視して本質を逸脱し阻害することは、悲劇の途中でファンの集いがごとくアンコールをやらかしたり、音楽無視でブラヴォーや拍手をかぶせたりすることで、そういった点で作曲家が気の毒で聴きに行きたくないというのがヴェルディに興味を持てない一番の理由ですが、この辺はムーティ先生からお説教していただきたいくらいです。一方視覚である演出は全員がムーティ先生と同じ考えである必要はないと考えますし、いろいろあるからこそ興味深い、つまり多様性こそが求められるのです。
 聴覚が阻害されないかぎり、作曲家や台本家の精神は守られるというのが個人的見解であり、演出は現代人が作曲家と台本家と時を超えて共同制作できる場所なのです。

 なぜか蛇足のほうが理屈っぽく力入ってしまいました<(_ _)>オペラが博物館で展示されるだけになってもイタリアという国は他にも魅力で溢れているのでなんら問題ではないでしょう。それでも他の国へ活躍の場を求めて出て行った人達も祖国へ戻りつつあります。時代は常に流れているもの。ドイツ語圏も供給過多ぎみなので、かつての賑わいを取り戻すこともあるやもしれません。

ジークフリート・・Deutsche Oper Berlin・・2017/4/15 [オペラ]

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Conductor Donald Runnicles
Production Götz Friedrich

Siegfried Stefan Vinke
Mime Burkhard Ulrich
Wanderer Samuel Youn
Alberich Werner Van Mechelen
Fafner Andrew Harris
Erda Ronnita Miller
Brünnhilde Ricarda Merbeth
A bird Elbenita Kajtazi

 この日の演奏が4日間の内で最も良かった、というかマシだったというところ。前の2日間より鳴らしていたので混濁感は増していたのですが、抑揚、テンポの取り方が上手く、躍動感がありました。
 冒頭、セットにディズニーのような可愛らしさがあり、ジークフリートとミーメのやり取りが活き活きとして、歌手もこの2人が目立ってました。
 ジークフリート役のフィンケの声に少し柔らかさがあって、成長過程のわんぱく小僧といった印象なのが可愛らしさもあるセットに凄く合ってました。ニックネームをつけるとしたら小僧くん。親しみやすい声であるだけでなくスタミナも十分。
 ミーメ役のウルリッヒがこの小僧を相手に巧の技ともいえるような上手さを発揮して観客からも大きな賞賛を浴びてました。
 さすらい人は心労の果てにスキンヘッドになってしまったということなのか?見た目が少々怖い印象。このリングは5日間の公演ということで、ヴォータンが日替わりになるのは止むを得ないところです。ユンはしっかりと歌っているのですが、やや堅い印象になってしまったのはスキンヘッドという少々怖い見た目と、前日にヴォータンを演じたパターソンとの違いがあってのことで仕方ないかもしれません。キャリアとしても歌い込んだ役ではなさそうです。
 同じくブリュンヒルデもこの日だけメルベートが歌ったわけですが、リングでは今までジークリンデしか歌ったことがないようで、もしかするとロールデビューでしょうか?最終日のグートルーネ役も初役かもしれません。どちらもそれほど違和感を感じることはありませんでしたが、グートルーネのほうがしっくりしていた気はしました。新国の『ジークフリート』のブリュンヒルデなので、再度聴く機会があるのは楽しみです。

 全公演通して同じ人が歌うほうが統一感があって良いでしょうが、そうなると少なくとも1週間以上、普通は10日間前後かかってしまって鑑賞不可能。それを考えると日替わりでキャストが変わることの違和感など大きな問題ではありません。


ワルキューレ・・Deutsche Oper Berlin・・2017/4/14 [オペラ]

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Conductor Donald Runnicles
Production Götz Friedrich

Siegmund Stuart Skelton
Hunding Tobias Kehrer
Wotan Iain Paterson
Sieglinde Eva-Maria Westbroek
Fricka Daniela Sindram
Brünnhilde Evelyn Herlitzius
Helmwige Martina Welschenbach
Gerhilde Seyoung Park
Ortlinde Sunyoung Seo
Waltraute Michaela Selinger
Siegrune Annika Schlicht
Rossweiße Christina Sidak
Grimgerde Ronnita Miller
Schwertleite Rebecca Raffell

 トンネルはやはりスケール感があって良いのですが、この日古臭い違和感があったのはワルキューレ達の衣装がTV番組『不良少女と呼ばれて』を彷彿させるものだったこと。番組が放映されていたのがこのトンネルリングの初演と同じ1984年なので、当時の世相を反映しているかもしれません。こんなに大勢不良娘がいたらヴォータンの苦労はいかばかりかと思ってしまいました<(_ _)>

 歌手で最も声が出ていたのはウェストブルック。カーテンコールでも賞賛は大きかったのですが、個人的には決して良い意味で目立っていたとは思えず、絶叫ぎみで浮いているといった感があり、この辺は指揮者からアドバイスがなかったのかと疑問が残ります。これにつき合わざるをえず大変そうにみえたのがスケルトン。もともとオリジナルのキャスティングではなかったのが2週間前くらいにキャストチェンジで歌うことになったのですが、同じボリュームで歌い続けた結果、1幕終盤は息も絶え絶えながらなんとか歌ったというところ。ところが2幕になってから持ちこたえ、ヨレヨレ感は劇的信憑性といった面で良い印象になってました。
 良かったのはヘルリツィウスとパターソン。ヘルリツィウスは元々意思の強さが声に感じられる人ですが、ブリュンヒルデ役では少女らしい愛らしさも印象に残り、絶叫ではないコントロールされた表現の上手さがありました。パターソンは劇場のサイズの違いもあってか、シラーでさすらい人で聴いたときほど声の深みは感じられなかったのですが、それでも包容力のある声で、微妙な心の機微が現れていて巧みでした。

 この日もオケは控えめでワルキューレの騎行も薄っぺらい印象。ここは音響に問題があると以前感じましたが、連日聴くと問題はそれだけではなく、オケのレベルもいかがなものかと思わざるをえませんでした。