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パルジファル・・・Bayerische Staatsoper・・・2018/3/24 [オペラ]

 この公演がオマケなどと言ったら張り倒されそうな気もするのですが、前日のロベルト・デヴェリューがなかったらベルリンでバビロンを観ていたわけで・・・<(_ _)>
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Musikalische Leitung Kirill Petrenko
Inszenierung Pierre Audi

Amfortas Michael Nagy
Titurel Bálint Szabó
Gurnemanz René Pape
Parsifal Burkhard Fritz
Klingsor Derek Welton
Kundry Nina Stemme

 なんと感想を書いて良いやら。オマケ精神がよくなかったのか?深くパルジファルの世界に浸るには至らなかったというのが正直なところ。
 その理由を振り返ってみると、まずは一幕最後の儀式の場面でオケが少々乱れ、同時に騎士の姿に引いてしまったこと。どこのオケでも乱れることはあるでしょうが、それを補うだけの深みのある音を聞くこと能わず。よって2幕冒頭の凄みも今一つ。それも演出が読み替えだったらそれほど気にならなかったかもしれませんが、読み替えといえる演出でもなし。テンポが速めということもあってオケがついていけてない感もありましたが、それでもここまでは軽いジャブ程度。強烈なストレートパンチは花の乙女達の姿。逃げろ!パルジファル。
 結局のところ、演出が主犯、オケが幇助と言いたい気はするのですが、主犯はもう一人。他でもない[猫]自身かもしれません。今まで『タンホイザー』『マイスタージンガー』とペトレンコ指揮でここで聴いたときにはほとんど気にならなかったのですが、『パルジファル』に音は重要です。ドイツの歌劇場オケの双璧はSKBとSKD、ここはあと一歩という印象が今までもあったのですが、今回もその印象を払拭するには至りませんでした。ただ音は劇場の構造や音響システムに起因することもあるのでオケのレベルだけの問題ではないかもしれません。
 歌手は良くも悪しくも想定内で、公演の印象を大きく左右するには至らず。
 シュテンメについてはクンドリ役には歌い方が綺麗すぎるという評価を耳にしたことはありましたが、今までは読み替え演出とコンサート形式だったのでそういったことは気になったことはありません。しかし、今回の演出では浮浪者のような身なりで登場するのにもかかわらず、端正に歌うのが違和感大で、なるほどと思わざるをえませんでした。それでも2幕になると姿は一変。金髪の妖女という姿で何かに取りつかれたように歌い、面目躍如の活躍でした。

 演出については鑑賞しながら考えるというほどではないにしろ、寝ているわけではないので何かを連想したり、想起したりするものです。それは人それぞれ、それまでの経験や知識によって呼び覚まされるものかもしれません。それを幕間や終演後に反芻するわけですが、今回の演出は鑑賞しながらなんら思い浮かぶことなく、[猫]の干からびた梅干しのような脳味噌はついに空洞化まで進んでしまったようです。脳味噌が空しいこともあり、何か虚しさが残る演出で、同じアウディの『パルジファル』でも以前鑑賞したアムステルダムの演出の方が馴染みやすいものでした。

 もちろんなんだかんだ言っても、日本では鑑賞し難い公演だったわけで、ブツブツ言っているとやはり張り倒されそうです<(_ _)>

 以下蛇足。
 鑑賞するにあたり、拘りを捨てて常に新鮮な気持ちで臨んだほうが楽しめるのかもしれませんが、それまでの経験を無にすることはよほど痴呆が進まないと無理。拘りというのは人それぞれの経験で培われたもので、楽しむためにそれをあえて無にするのも空しい気がします。そんなことを心がけなくても、やがて知性に病ダレが見え隠れしはじめ、終には病ダレが張り付いて痴呆に至ります。そうなればこっちのもの、嫌でも常に新鮮に楽しめそうです。ただし、鑑賞後無事に帰ることができなくなるので付き添いが必要、付き添う人にとっては厄介かもしれません。それに痴呆よりも先に身体が動かなくなった場合はそうもいきません。はてさて痴呆が先か身体が動かなくなるのが先か、痴呆の場合は自分で気が付かない場合もあるので、これまた厄介です。

 
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