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ヴォツェック・・Haus für Mozart・・2017/8/14 [オペラ]

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Vladimir Jurowski, Musikalische Leitung
William Kentridge, Regie

Matthias Goerne, Wozzeck
John Daszak, Tambourmajor
Mauro Peter, Andres
Gerhard Siegel, Hauptmann
Jens Larsen, Doktor
Tobias Schabel, 1. Handwerksbursch
Huw Montague Rendall*, 2. Handwerksbursch
Heinz Göhrig, Der Narr
Asmik Grigorian, Marie
Frances Pappas, Margret
Salzburger Festspiele und Theater Kinderchor
Wolfgang Götz, Leitung Kinderchor
Konzertvereinigung Wiener Staatsopernchor
Ernst Raffelsberger, Choreinstudierung
Wiener Philharmoniker
Angelika-Prokopp-Sommerakademie der Wiener Philharmoniker, Bühnenmusik
Patrick Furrer, Leitung Bühnenmusik

 舞台セットは殺伐とした瓦礫の山。不穏な閉塞感に満ちた演出の設定は負傷兵やガスマスクをつけた人がうろつく戦禍の街。前日に観た『皇帝ティートの慈悲』と同じく現代の世相を反映した演出でしたが、戦禍の中で狂気へと導かれるさまは現実味のある陰鬱さに支配されていました。
 子供をどう演出するか、この演目のポイントとして注目していたのですが、ケントリッジは人形で表現。傍で人形を操るのは看護婦で、子供は障害か病気がある設定になってました。戦禍の街ということで当然空爆や銃撃が原因だったのかと想像せざるをえず、幕切れで舞台中央で動くことができずにいる子供にスポットライトがあてられブラックアウトしたのが痛ましすぎて後をひく悲劇でした。
 
 席は2階後方サイド。ほとんど見切れることなく舞台を見れたのは良かったのですが、この演出で鑑賞するのはもう少し舞台に近いほうが良かったかもしれません。全体的に常に暗い舞台でスポットライトによって主要登場人物を浮かび上がらせることが多かったのですが、暗い部分でも度々人が現れたり動いたりしていて、それが気になっても良く見えないというのが変なストレスになりそうでした。これにはもう全体的な印象として捉えたほうが自分自身の緊張感を保てそうだったので、早々に細部に拘ることは諦めて鑑賞しました。それで良かった気がしてます。

 歌手はタイトルロールのゲルネをはじめ、適材適所。中でも意外性という点で印象的だったのはグリゴリアン。どちらかというとマリーという役は生活に疲れきった中年といった印象を持ってたのですが、若々しく溌剌とした明るい声は戦禍の中に咲く花といった雰囲気さえあり、殺害されてしまう悲劇性をさらに大きくしていました。誘惑され、若さゆえに誘いに従ってしまったと考えれば話としても自然に思えました。

 演奏も緊張感があって良かったと思うのですが、強く印象に残るものではなくやや控えめ。ユロフスキはバイエルンの『炎の天使』以来2回目で、その時は抑制された演奏が尖った演出によく合って好印象でしたが、今回も控え目に思えたのは常にそういう演奏スタイルなのか?今後も聴く機会があることを楽しみにしたいと思います。


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二人のフォスカリ(コンサート形式)・・Großes Festspielhaus・・2017/8/14 [オペラ]

Michele Mariotti, Musikalische Leitung

Plácido Domingo, Francesco Foscari
Joseph Calleja, Jacopo Foscari
Guanqun Yu, Lucrezia Contarini

Philharmonia Chor Wien
Walter Zeh, Choreinstudierung
Mozarteumorchester Salzburg

 夏の旅行最大のオマケ公演。天下のドミンゴ様ご出演なのにオマケとはなんと失礼な!とお怒りの御仁もいらっしゃるかもしれませんが、もともとヴェルディに興味はないので正直に書きます。
 興味ないなら鑑賞するなヨ・・・ではありますが、夜の公演が20時とあって、昼間に観光といっても疲れるだけだし興味はないといっても『二人のフォスカリ』は聴いたことがないので、最安席だったら聴いてみても良いかと申し込んだところ、当たってしまったわけです。

 『二人のフォスカリ』って二人のテノールという意味もあるの?とトボけたことを書いてしまいそうな印象ではありましたが、ドミンゴ様はさすがにドミンゴ様でありました。2012年にここザルツブルクの『タメルラーノ』で聴いて以来5年ぶりですが、以前と変わらぬ声で観客を魅了した公演でした。
 ドミンゴ様登場時に演奏が続いているにもかかわらず、拍手がパラパラと出てしまったのはオペラ過疎地のご贔屓公演のようではありましたが、世界中の過疎地から大勢押し寄せてくるので仕方ないことなのかもしれません。もちろん[猫]も過疎地からの一人ではあります。

 鑑賞目的である『二人のフォスカリ』の印象はどうだったかというと・・・
ドンチャカドンチャカドンチャカドン!
ブンチャッブンチャッ・・・・・・・
ヴェルディはヴェルディだったとしか書きようがありません。
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皇帝ティートの慈悲・・Felsenreitschule・・2017/8/13 [オペラ]

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Teodor Currentzis, Musikalische Leitung
Peter Sellars, Regie

Russell Thomas, Tito Vespasiano
Golda Schultz, Vitellia
Christina Gansch, Servilia
Marianne Crebassa, Sesto
Jeanine De Bique, Annio
Willard White, Publio

musicAeterna Choir of Perm Opera
Vitaly Polonsky, Choreinstudierung
musicAeterna of Perm Opera
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 クレンツィス&ムジカ・エテルナの公演はこれまでコンサート2回とルールトリエンナーレの『ラインの黄金』、その他、オケはムジカ・エテルナではありませんでしたが、チューリッヒでクレンツィス指揮の『マクベス』を聴いてます。いずれも新鮮な印象の残る秀作でありました。
 当然今回も・・・・と思って臨んだわけですが・・・今回は集中して鑑賞することができず、途中でどうでもよくなってしまいました。<(_ _)>
 
 これまで鑑賞した公演と何が違ったのか?『ラインの黄金』や『マクベス』では演出家と指揮者のコンセプトが完全に一致し、手法に演出と演奏が相乗効果を生み出す秀逸さがあり、なおかつコンセプトを具現化できる適材適所の歌手が揃ってました。今回は演出と演奏のコンセプトの統一という面では間違いなく一致していたのですが、問題はその手法。そして歌手全員が適材適所だったかといえば、そうだった人もいれば、疑問が残った人もいたというところ。
 
 舞台セットは閑散として殺風景。演奏の極端なテンポの変化と頻繁に繰り返された長い間合い。さらには休憩後、クレンツィスもオケピに入り、客席が静まり返って始まるのを待っていたのですが、精神統一のためなのか?舞台セットが整わなかったのか?分かりませんが、結構長い間待ったのには、トットと始めましょうよ・・・と思ってしまい、[猫]の公演に対する集中はプッツン、プッツン、ついにはどうでもよくなってしまったという次第。

 演出は現代の世相を反映して、テロに至るまでの実行犯の苦悩と被害者の寛容さを表した読み替え。それを立場を変えて示したかったという意図があるかのように、テロ実行犯となるセストとその妹に白人、その他は黒人という配役でした。そういったキャストの選び方があっても良いとは思います。黒人の歌手の人は今までも何人も聴いてますが、特に書く必要もなかったので、感想でそれを記述した記憶はありません。今回も全員が音楽的にも適材適所だと思えれば気にも留めなかったかもしれません。ただし音楽面で少しでも疑問が残った場合、話は少々違ってきます。ザルツブルクという国際的な音楽祭で、メッセージ性が音楽面より重視されたかのような配役はいかがなものか?という違和感が残ってしまったのは否めません。

 これまでに鑑賞した公演が秀作だったがために否定的なことを先に書いてしまいましたが、もちろん良かった面も多々あり。演出に合わせて同じモーツァルト作曲の他の作品を挿入したり、木管奏者が舞台に上がってセストのアリアに寄り添って演技しながら演奏するなど効果的で面白い趣向でした。

 もともとタイトルロールよりもセストやヴィッテーリアのほうが目立つ作品ですが、今回は演出によって、セストが特に際立っていた感があり、クレバッサの好演があってこそといった印象が残った公演でした。遠目でみているとオーランド・ブルームの弟かと思うような美少年で、日本ではまだそれほど有名ではないですが、既に欧州各地の一流劇場で主役級を歌っているだけの実力が歌唱、演技共に備わっている人だと改めて思ったのでした。
 ヴィッテーリア役のシュルツもきれいな歌唱だったので調べたところ、バイエルン歌劇場のアンサンブルと判明。自然な安定感はやはり第一線で舞台慣れしているという印象でした。
 ただ今回のようなメッセージ性が強い演出だと目立つ役と目立たなくなってしまう役がでてきてしまう面があり、そのためか否かカーテンコールは一人ずつではなく全員一緒に出てきましたが、全員で制作した作品という心意気に満ちていたのは好感がもてました。

 ムジカ・エテルナはオケピの中でも基本の立奏は崩さず、演奏してないときだけ着席してました。
 またムジカ・エテルナの合唱の上手さはエクスで聴いた『イオランタ・ペルセフォーヌ』(今回と同じセラーズ&クレンツィスでしたが、鑑賞した日はクレンツィスが降板)を思い出しましたが、同じ演出家ということもあってか動き方がその時と似た雰囲気で、上手さも想定内といった印象にとどまってしまった感があります。

 以下は度々書いてしまうことですが・・・
 なにかとお聞き通し感だの想定内だのと言ってしまう[猫]のような観客は、制作する側にしてみれば、飽きっぽいだけの嫌なヤツかもしれません。制作する側とすれば成功した手法は次も生かしたくなるのは当然で、常に何か新しいものを創り続けなくてはならないとなると・・・やってられないっすヨ・・・という声も聞かれそうです。それに10割打者など存在しないように、どんな歌手でも指揮者でも演出家でもオケでも常に上手くいくとはかぎりません。鑑賞する側の個性もそれぞれですから、良いと思えるときもあればそうでもないときがあるのは自然なことであります。
 それでも興味のある公演を選んで聴いていると、来た甲斐のある公演のほうがそうでない公演よりはるかに多いので、制作する人達の才能はまだまださまざまに開花するに違いなく、今後も[猫]はそれを求めてあちこち出没します。
 

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パルジファル(コンサート形式)・・Turun Konserttitalo・・2017/8/12 [オペラ]

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Parsifal: Klaus Florian Vogt, tenor
Kundry: Karita Mattila, soprano
Gurnemanz: Matti Salminen, bass
Amfortas: Waltteri Torikka, baritone
Klingsor: Robert Bork, bass
Titurel: Juha Kotilainen, bass
Chorus Cathedralis Aboensis
Turun filharmoninen orkesteri
Ville Matvejeff, conductor
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 我ながらよくここまでやってきたものだと思ったフィンランドのトゥルクでの公演。14時からの公演だったのでヘルシンキに2泊して日帰り。H/P上で上演時間が4時間半となっていたのは疑わしいものだと思ってましたが、結局のところ主要登場人物以外の場面はカットした上演で終演は19時頃でした。
 一番の目的はサルミネンのグルネマンツ。サルミネンなら9月に来日してくれるのにわざわざそんなに遠くまで行くなんてアホちゃう?そう、アホです。否定しません。でも[猫]が聴きたいのはザラストロではなく、グルネマンツなのです。今まで残念ながらハーゲンなどハマリ役を歌っていた頃のサルミネンは聴いたことがなく、超ベテランになってからダーランド役で聴いたことがあるだけで、このまま聴く機会なく引退してしまっては少々寂しすぎる。以前のような歌声は無理であってもグルネマンツなら長老とあって今のサルミネンを聴くのには最適と思えたわけです。実際に1幕の朗々とした語りは劇的信憑性抜群でした。
 タイトルロールはフォークトですが、バイロイトのマイスタージンガーの公演が7日から15日まで間が開いていたのはトゥルクでパルジファルが2公演あるからでした。
 会場は客席数1002席とそれほど大きくなく、フォークトも以前より体格がよくなったせいか、2幕「アンフォルタス!」からの変身ぶりは以前よりもパワーアップして聞こえ、ほとんど超サイヤ人。フォークトのパルジファルは汚れなき愚者からの変身ものといった雰囲気でありますが、間違いなくテンションがグッと上がる醍醐味は他の人ではなかなか味わえないものです。ただフォークトのパルジファルを聴くのは6年ぶりで、声が以前より硬質になってきたせいか、汚れなき愚者のとき、どこから来たかな?という不思議くんたる所以の???感は以前ほど???ではなくなった気がしないでもありませんでした。
 この超サイヤ人と化したフォークトが相手とあってはロールデビューだったかもしれないマッティラは全力投球せざるをえないわけで 、まだ譜面は手放せない状態ではあっても気持ちは凄く入った渾身のパフォーマンス。歌い終わった後、席に座って肩で息をする様子にワーグナー歌いはアスリートだと思ったのでした。声が重くなったとはいえ、まだリリックな面があるのでワーグナーだったらジークリンデの方が合いそうではありますが、歌い方で妖艶で謎めいた雰囲気は出せるベテランですから、今後演出つきの公演でも聴く機会があることでしょう。
 他の出演者も良かったのですが、こういっては失礼ながらほとんど期待していなかったオケの演奏も感涙ものでした。
 オケの編成数は当然会場の大きさに合わせていて、全部の編成は確認できませんでしたが、低弦はチェロ、コントラバス共に5台づつ。演奏に深みが若干希薄で2幕冒頭のクリングゾルのシーンの凄みといったものも物足りなさがなきにしもあらずという面があっったのはやむを得ないのかもしれませんが、3幕の柔らかな救済感は感動的で、はるばるやって来た甲斐が大いにあった公演でした。

 さて、話は変わって会場に入って最も驚いたのは女子の多さ。[猫]の前列などは端から20名数えて男子の割合はわずか1割の2名。全体的にざっと見回しても6割以上、7割くらいは女子ではないかという程だったので、臨席の人にいつもこのような状況なのか尋ねたところ、カルチャー行事は女性のほうが興味を持つ人が多いとのこと。休憩時は当然トイレが長蛇の列でありました。
 さてさて、またまた話は変わって全く公演には関係ない話で女子男子という言葉について。女子男子とは成人にも使う言葉であるのは広辞苑でも明らかですが、何故か女子と言えるのは何歳までか?という意味不明な話があるので、あえて時々使おうかと思ったりしてます。ゴルフ場正会員の細則に「一定の年齢に達した男子とする」という記載があることが五輪関係で話題になってましたが、何歳まで?とは誰も疑問に思わないのに、どうして女子は何歳まで?ということになるのでしょうか?

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ジークフリート・・新国立劇場・・2017/6/14 [オペラ]

指揮 : 飯守泰次郎
演出 : ゲッツ・フリードリヒ

ジークフリート  ステファン・グールド
ミーメ  アンドレアス・コンラッド
さすらい人   グリア・グリムスレイ
アルベリヒ   トーマス・ガゼリ
ファフナー   クリスティアン・ヒュープナー
エルダ   クリスタ・マイヤー
ブリュンヒルデ   リカルダ・メルベート
森の小鳥  鵜木絵里 九嶋香奈枝 安井陽子 吉原圭子
管弦楽 東京交響楽団

 日本の公演はほとんど行かないのですが、オラが村の歌劇場にはたまには足を運ばなくてはいけない気がしてリングだけは参加してます。
 某所でリングを聴いたことで新国の株がアップ。この劇場は変な音響もなく良い劇場であることが何よりで、充分に楽しめた公演でした。

 今回も歌手陣は充実。演奏も前2作よりも良く、3幕こそここが聴かせどころとばかりの冗長感が若干ありましたが、歌手と一体となってワーグナーの世界観を伝えることに成功してました。

 グールドが全4公演に出演してくれることが大きな魅力になっていることは間違いありませんが、今回はアルベリヒとミーメ兄弟の迫真のやり取りも印象に残りました。

 演出については特に書くこともなし。全く個人的に勝手なことを言わせてもらえるなら、以前のウォーナー作品4作のうち前半2作を見損なっているので、またもどしてもらいたい気がしないでもないのです。
 
 演出はともかく、『神々の黄昏』も楽しみにしておきます。
 
 

タンホイザー・・Bayerische Staatsoper・・・2017/6/4 [オペラ]

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Musikalische Leitung Kirill Petrenko
Inszenierung Romeo Castellucci

Hermann, Landgraf von Thüringen Georg Zeppenfeld
Tannhäuser Klaus Florian Vogt
Wolfram von Eschenbach Christian Gerhaher
Walther von der Vogelweide Dean Power
Biterolf Peter Lobert
Heinrich der Schreiber Ulrich Reß
Reinmar von Zweter Ralf Lukas
Elisabeth, Nichte des Landgrafen Anja Harteros
Venus Elena Pankratova
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 バイエルンのタンホイザー、日本公演を控えているとあって話題にならないわけはありません。
 不思議くん、ユニコーンなどと呼んでしまうほど圧倒的な声の力を持っているフォークトのロールデビューですが、今までのヘルデンテノールとは明らかに異なるタイプであり、これからもこのようなタイプの人が現れるか分からないと思うほどであります。今までとは異なるがゆえに違和感があるという人がいるかもしれませんが、今までとは異なるからこそ新しい『タンホイザー』にしようという意欲が指揮のペトレンコにも演出のカステルッチにも全面的に現れていた公演でした。

 カステルッチの演出は異次元の声には異次元の空間をとばかりに時空を超えた演出。
 ペトレンコ指揮の演奏は美しい音で歌手の声に優しく寄り添うかと思えば、全てを包み込むように広がる様は変幻自在。今まで聴いた『タンホイザー』と異なる部分があるような気がしたのですが、ウィーン版を元に一部ドレスデン版を採用したとのこと。そういった意味でも今まで聴いたことがない『タンホイザー』でした。
 
 日本公演を控えているのであまり詳細を書くことはよろしくないのですが、抽象的でさまざまなことを示唆する演出は、その解釈において何が正しく何が間違っているということもなく、人それぞれの解釈が可能という柔軟性がありながら、大筋では多様性を示唆しつつ最後は観ているものを一種の悟りへと導くものでした。

 既に映像配信もあったようですし、人それぞれ解釈が可能な演出ということで、個人的な感想を書いたとしてもどうということはないでしょう。

 序曲では何本もの矢が放たれ、その的は目と耳。それは既存の作品の記憶を忘却へと導き、新しい『タンホイザー』になるということを示唆していると共に、光陰矢のごとく時空を超えるということも暗示していたようでした。
 一幕、肉欲の世界から脱出し、堕落から抜け出したはずが待ち受けていたのは無益な殺生をする血生臭い世界だということに愕然とするタンホイザー。価値観の多様性を示すことで、この演出はタンホイザーを単なるダメ男にはしていませんでした。
 二幕は古代。登場人物の衣装にはギリシャ風、エジプト風、アラブ風など民族の多様性が表れ、歌合戦に参加する騎士たちも日本の白装束のような衣装でした。
 三幕は数千年後、数百万年後・・・遥か遠い未来。
 タンホイザーとヴォルフラムの役柄設定が対照的だったのが印象的で、激昂のタンホイザーと達観のヴォルフラムといった様相。多様性の間で矛盾を抱え激昂するタンホイザーは思春期の少年のようであり、全ての感情を飲み込むように穏やかな抑制を保つヴォルフラムは諸行無常を唱える僧侶のようでした。
 フォークトのタンホイザーは初めてなので他の演出での歌い方と比べようもありませんが、シラーで聴いたゲルハーハーのヴォルフラムは言葉一つ一つを大切に感情を込めて歌い、正に詩人といった印象だったことを思い出すと、今回はそれとは明らかに異なる表現でした。
 ハルテロス演ずるエリーザベトは愛する人のために一人の女性であることを捨てた聖女。凛とした美しさは歌声と共に輝いてました。
 ツェッペンフェルト、パンクラトヴァをはじめ脇を固める歌手も盤石で、一言で感想を書くとすると、歌と演奏が創る世界に圧倒され続けた公演でしたが、それも歌手は常に舞台前方で自然体で歌に集中できる演出で、舞台後方でその他大勢が何かを示唆するように演技をするという手法が功を奏しているように思えました。

 終盤大きく広がる音楽の中、最後に舞台上で示された収束は「悟り」のような安息をタンホイザーにだけでなく観客にももたらすものでした。
 どれだけ多様性があろうとも生きとし生けるもの全てがやがてひとつになる。
 多様性が故に混沌とし続ける現代社会に一石を投じるかのような秀作でした。

 ペトレンコが2幕終了時、楽譜をめくってここだとばかりに指をさした後、オケピに残ってチェロのメンバー達と何か話し合ってました。表情は穏やかでしたが、何か問題でもあったのか?素人には皆目見当もつきませんでしたが、理想とする音楽を追及する真摯な姿勢が垣間見れ、そういった姿勢も今やベルリンフィルを担うまでに至った要因の一つなのかもしれないと思ったのでした。

 もちろんカーテンコールは賞賛の嵐。
 

 
 

ラインの黄金(コンサート形式)・・Festspielhaus Baden-Baden・・・2017/6/3 [オペラ]

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Marek Janowski Dirigent
Michael Volle Wotan
Katarina Karnéus Fricka
Johannes Martin Kränzle Alberich
Daniel Behle Loge
Gabriela Scherer Freia
Lothar Odinius Froh
Markus Eiche Donner
Nadine Weissmann Erda
Elmar Gilbertsson Mime
Christof Fischesser Fasolt
Lars Woldt Fafner
Mirella Hagen Woglinde
Julia Rutigliano Wellgunde
Simone Schröder Floßhilde
NDR Elbphilharmonie Orchester

 長い間病気療養していたクレンツレのアルベリヒ、尚且つヘンゲルブロックが指揮とあって楽しみにしていたのですが、ヘンゲルブロックが降板してしまいました。代わりに指揮を執ったのは、困ったときは任せろとばかりにご活躍のヤノフスキ師匠です。

 当然思い出すのはN響との春祭の公演ですが、その時の舞台配置とは左右が逆で、春祭では下手にあったハープは上手に、上手奥で歌っていた巨人兄弟は下手奥でした。他の歌手の人達はオケの前、エルダが上手側2階客席で歌うというのは同じでした。

 正確な音で演奏するという上手さではN響はさすがのものがありましたが、重心の低さはやはりドイツのオケです。[猫]の拘りである巨人族のサイズはN響ではアントニオ猪木くらいでしたが、余裕でハグリット以上でした。N響との演奏は反応が良すぎてサラサラと進んんでしまったというところでしょうか?2時間15分しかかかりませんでしたが、今回は2時間25分程でしたからほぼ中庸といったところ。もちろん歌手も違いますから、同じヤノフスキ指揮といっても大分印象は異なるものでした。

 譜面台は置かれていてもほとんどの歌手には無用の長物。自然に演技のような動作も伴って醍醐味は満点。
 充実の歌手陣の中で最もカーテンコールで賞賛を受けたのはクレンツレ。言葉を大切にして時に吐き捨てるように歌う上手さはさすがで、呪いの歌も絶品。スカラで同役で聴いたときを思い出しましたが、病気から完全復帰で一安心しました。スカラで聴いたときが初めてかと思っていたところ、最近になってザルツの『ディオニュソス』で主役のNを歌っていたことに気づき、難しそうな役も好演していたと思い出して、改めて存在の重要さを認識したのでした。
 クレンツレとほぼ同様に賞賛されていたのはフォレ。歌も姿も威厳がありながらそこはかとなく苦悩と憔悴感がにじみ出る様相は正にヴォータン。
 歌手陣の中で唯一楽譜を手にしていたのがローゲ役のベーレ。今夏のバイロイトのローゲですが、間違ってました。フローです。まだ楽譜があったほうが安心といったところでしょうか?フロー役のオディニウスもドンナー役のアイヒェも百戦錬磨といったところで完全に役に入り込み、方や腕を組み、方や腰に手を当ててお互い顔を見合わせ、お手並み拝見といこうじゃないかという様子でローゲを見ているのが現実の状況と重なってるようでした。これがなんとも新鮮な味わいのあるローゲで、若々しく清々しい知的な声は名探偵コナンか一休さんか?いや、若き日のシャーロック・ホームズか?といった雰囲気で、実際カーテンコールでクレンツレ、フォレに続いて賞賛されていたのがベーレでした。
 ファーゾルト役はリンデンの元アンサンブルであるフィッシェサー。この人のクリングソルは非常にクールで好みでしたが、久しぶりに聴いた声には温かみが感じられるようになっていて、ファフナー役のヴォルトの凄みと迫力のある声と対照的で、共に役に合ってました。
 他のキャストも盤石。
 ドンナーの雷は実際にアイヒェがハンマーを持ちアンビルを鳴らすという趣向も面白いものでした。

 ザルツブルクからの移動は結構大変でしたが、来た甲斐があった公演でした。


アリオダンテ・・Haus für Mozart・・・2017/6/2 [オペラ]

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Gianluca Capuano, Musikalische Leitung
Christof Loy, Regie

Nathan Berg, Der König von Schottland
Kathryn Lewek, Ginevra
Cecilia Bartoli, Ariodante
Rolando Villazón, Lurcanio
Sandrine Piau, Dalinda
Christophe Dumaux, Polinesso
Kristofer Lundin, Odoardo

Salzburger Bachchor
Alois Glaßner, Choreinstudierung
Les Musiciens du Prince – Monaco
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 相変わらず書くことが億劫です。1か月以上放置してしまいました。

 ザルツブルク聖霊降臨祭初日。H/Pに掲載された髭のバルトリの写真が興味を惹いた公演です。
 
 時代は現代に設定した演出でした。冒頭はほとんどの登場人物がHIPの衣装だったのにポリネッソだけが現代の衣装で登場したので少々戸惑いはありましたが、これが余興としてHIP様式のダンスを楽しむという設定で、登場人物もそれに参加するための衣装合わせをした状態のようでした。ロイ演出で一部HIPを取り入れたものなので、1月に見たチューリッヒの『アルチーナ』の二番煎じと言えないこともなしではありましたが、同性カップルが認められつつある現代を象徴するような内容で、バルトリが最も得意とするユーモアのセンスに満ちた演出でもありました。夏のザルツブルク音楽祭で再演されるので、多くを書くのは好ましくないかもしれませんが、1幕と3幕冒頭にイタリア語でナレーションが入り、ドイツ語と英語の字幕もあるので難解ではありません。
 『アルチーナ』より良くなっていると思ったのはダンス。結構ステップを早く踏んでいるにもかかわらず、音がほとんど気にならないのは大きな進歩でした。ダンサー達は全員男性ですが、白いドレスを身に着けたダンサー達の踊りはバロックジェスチャーを基本にした繰り返しの多いもので、軽快なテンポでありながら優雅なステップで愛らしく、一時期流行ったパラパラのようなノリの良さがあって大きな見どころの一つになってました。

 ユーモアのセンスはバルトリの真骨頂であるアジリタを堪能する場面でも発揮されていて、酒瓶を片手に酔っぱらいながら歌ったり、葉巻を吸いながら歌ったりという設定で楽しませてくれましたが、長いアリアの途中で間をとり、いかにも酔っているようにゲップを入れてふらついたり、タバコを大きく吸ってはく仕草を入れたりするのは観客を楽しませるだけでなく、途中息を整えることができて歌いやすい面もあったのかもしれません。
 そんな軽妙なユーモアがある一方で、ジネーヴラが苦しみを歌うアリアは非常にゆっくりとしてシリアスさを強調。演出に合わせてテンポを大きく変えたり間を取ったりする音楽づくりは演出と同様に現代的な印象となってました。
 指揮はローザンヌの『アリオダンテ』で好印象だったファソリスが執ることも楽しみではあったのですが降板。演出に合わせて多様に変化する演奏はローザンヌで聴いたものとは大きく異なり、今回はコンセプトが合わなかったのか?と勝手に想像してしまいました。

 個人的には古楽の演奏はあまり変化させないほうが好みではありますが、観客を楽しませる趣向満載の公演は初日であるにもかかわらず大変完成度が高く賞賛に値するものでした。

 演技が要求される演出ではあってもバルトリだけでなく他の歌手の人達も盤石。
 デュモーのポリネッソを聴くのは2回目ですが、今回も芯の太い声でアジリタはまろやか。古楽に興味を持ってからCTの人達を聴く機会が増えましたが、どの音域でも無理のない発声で安定感抜群の上、悪役の雰囲気たるや抜きんでるものがあります。
 ところでこのポリネッソ、悪知恵は働くのに剣は弱いというツメの甘さで憎みきれないところがありますが、無念さを表すがごとく最後にからくりがあるのも面白い演出です。

 カーテンコールは賞賛で溢れてましたが、終了後、閉じたカーテンの向こうから出演者の歓喜の声が聞こえました。リハなどもさぞかし大変であったろうと想像できる内容の公演で、初日成功の喜びも一入だったに違いありません。


 

神々の黄昏・・Deutsche Oper Berlin・・2017/4/17 [オペラ]

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ConductorDonald Runnicles
ProductionGotz Friedrich

Siegfried Stefan Vinke
Gunther Seth Carico
Alberich Werner Van Mechelen
Hagen Albert Pesendorfer
Brunnhilde Evelyn Herlitzius
Gutrune Ricarda Merbeth
Waltraute Daniela Sindram
1st Norn Ronnita Miller
2nd Norn Irene Roberts
3rd Norn Seyoung Park
Woglinde Martina Welschenbach
Wellgunde Christina Sidak
Floshilde Annika Schlicht
ChorusChor der Deutschen Oper Berlin

 トンネル・リングの最後の公演。
 奥行のあるトンネルはスケール感がありながら閉塞感もあり、奥に見えるトンネルの口から射す光が残された希望のようでした。
 終了後このトンネルの運命はどうなるのでしょう?どこか引き継ぐ劇場があればそれに越したことはないのでしょうが、これだけ奥行のあるセットとなるとなかなか難しそうです。別に前の記事で書いた蛇足の続きではないのですが、博物館で展示して誰でも通り抜けられるようにしたら大人も子供も皆ジークフリートやブリュンヒルデ気分を味わえて素敵です。奥行がかなりあるように見えるのですが、奥へ行くほどトンネルの半径は小さくなっているので、実際に通り抜けてみると意外とトンネルの長さは短いと感じるかもしれません。普通は「博物館に入る」とは後世に伝えるべき遺産として認められるということですが、この演出のセットだったらそれだけの価値がありそうです。それでもやはりこれだけ大きいものだと難しいのかもしれません。

 歌手の人達は全員、最後の公演ということで気概と緊張感を持って好演してましたし、コーラスも以前聴いた『ローエングリン』のときのようにグチャグチャに聞こえるというほどではありませんでした。

 この最後のリングを鑑賞しにきた観客は亡きゲッツ・フリードリッヒの遺産を敬愛してやまない愛好家が多く、オケのレベルだの音響だのは二の次でよいのです。

 終了後は別れを惜しむ沈黙が続き、カーテンコールは盛大に盛り上がったのは言わずもがな。

 伝説と言われるほどの名演出が終わってしまったという喪失感と5日間という短期間でリングを通しで鑑賞できたということの満足感、同時に忍耐が終わった解放感も押し寄せた[猫]でありました。

 ここは以前から大衆歌劇場という印象はありましたが、特にワーグナーについては見る劇場であって聴く劇場ではないです。[ふらふら]
 ワーグナー以外を聴いたときはほとんど気にならないので、ここはオーケストレーションが複雑でないイタリアものなどのオペラとバレエの公演に特化したほうが良いのではないかと思うほどですが、オケのレベルや音響がどうのこうのとブツブツニャーニャー言う[猫]のようなものはお呼びでないというだけのことかもしれません。
 よって、ここにワーグナーを聴きに足を運ぶことは2度とないとまでは言いませんが、当分遠慮しておきます。

 思いがけず何人かの方々とお目にかかれたのは幸いでした。

 

パルジファル・・Wiener Staatsoper・・2017/4/16 [オペラ]

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DIRIGENT Semyon Bychkov
REGIE UND BÜHNE Alvis Hermanis

Amfortas Gerald Finley
Gurnemanz Kwangchul Youn
Parsifal Christopher Ventris
Klingsor Jochen Schmeckenbecher
Kundry Nina Stemme
Titurel Jongmin Park
1. Gralsritter Benedikt Kobel
2. Gralsritter Clemens Unterreiner
1. Knappe Ulrike Helzel
2. Knappe Zoryana Kushpler
3. Knappe Thomas Ebenstein
4. Knappe Bror Magnus Tødenes
1. Blumenmädchen/1. Gruppe Ileana Tonca
2. Blumenmädchen/1. Gruppe Olga Bezsmertna
3. Blumenmädchen/1. Gruppe Margaret Plummer
1. Blumenmädchen/2. Gruppe Hila Fahima
2. Blumenmädchen/2. Gruppe Caroline Wenborne
3. Blumenmädchen/2. Gruppe Ilseyar Khayrullova
Stimme von oben Monika Bohinec
 
 この日リングはお休み。シラーでは『影のない女』でしたが、同じ演出をスカラで既に見たのでパス。エッセンの『預言者』とウィーンの『パルジファル』でどちらに行くか少しだけ迷いました。ウィーンの演出が以前と同じだったら間違いなくエッセンへ行ったのですが、ウィーンが新演出ということで5日間連続ワーグナーづくしに決めました。

 ヘルマニスの演出はウィーンにあるオットー・ワーグナー病院が舞台。グルネマンツとクリングゾルは医者、クンドリは精神を患っている人という設定ですが、現れたパルジファルの鎧にマントという姿はまるでタイムスリップしてきたようでした。舞台セットは中央に扉があって、その上にDie Zeit(時)と書いてあったことと、聖杯が脳だったことがポイントである気がします。Die Zeitという文字が今回の席からはセットの死角になって見えないことが多く、途中で見えたときにすぐにはピンとこなかったものの、見終わってしばらくして、そういえば書いてあったと思い出し以下のように解釈するに至りました。
 
 この演出が伝えたかったことは・・・時を超えて大切に守り敬うべきは人間の英知と精神
 
 パルジファルとクンドリは時を超えた存在。クンドリもパルジファルを誘惑する場面ではタイムスリップしたような衣装に替わり、最後の儀式でもこの扉から出てくる人々の中に古代の衣装を身に着けた人が混ざってました。映画だったらぼかしを入れたりしてタイムスリップを表現するところでしょうが、舞台だと少々違和感がなきにしもあらずではあります。
 グルネマンツは精神科医、クリングゾルは外科医という様相でしたが、二人とも治療の一環としてパルジファルを利用したというところで、その点ではグルネマンツ医師は失敗、クリングゾル医師が成功したということです。
 クリングゾルは悪者ではなく、クンドリに接するのもあくまで治療といったところで、シュメッケンベッヒャーもしっかりと歌っているものの、悪い印象を残すような歌い方ではありませんでした。アンフォルタスの傷が頭にあったのは、クリングゾル医師の医療ミスということでしょうが、パルジファルが聖槍を手にする場面は日本人が見ると・・・聖槍は脳トゥングか?・・・とツッコミたくなるものだったのもちょいと奇妙ではありました。ただクリングゾルはパルジファルを襲うどころか、聖槍を取ってくださいとばかりの動作を取ったのです。
 このように違和感やツッコミたくなるような場面がしばしばあり、理屈っぽい面もありますが、鑑賞する側に解釈する余地がある演出は悪くありません。アンフォルタスは死に、クンドリは死なずにDie Zeitと書いてある扉から去っていくというエンディングでしたが、クンドリが向かったのは過去か未来か?想像におまかせといった趣向も悪くないものでした。
 ワーグナー作品を同じ姓であるワーグナーが設計した病院を舞台にしたというだけでなく、時代設定がフロイトが生きていた頃ということでウィーンの人達にとっては更に意味深い演出なのかもしれません。
 
 カーテンコールで最も賞賛されていた歌手はユン。医者という設定は明晰に歌うユンの良さが光ってました。
 ベテランのヴェントリスの声の若々しさは数年前聴いたときより声にハリがあるかと思えたほど。
 クンドリがロールデビューのシュテンメはきれいすぎるという感想もあるようですが、声が重くなってきている感があり、きれいすぎるというほどではないと思えました。ただこの役はメゾの方が暗さ、翳りがあって合うという気はします。
 花の乙女たちはパルジファルの台詞Dies Alles – hab ich nun geträumt? どおりに夢の中の人達のようでしたが、髪型や衣装が少々薹が立った感があってピンとこない感じはしました。
 
 DOBのリングの途中で聴いたウィーンの演奏は正にオアシス。ビシュコフにも盛大な賞賛がありましたが、1幕では他の理由でストレスを強いられてしまったのが無念。途中で観客席からピッピッと電子音がしばしば聞かれ、その方向を見るとなんと写真を撮っているではありませんか(vv。。マナーを知らない一見さんと遭遇する機会がしばしばあるのがこの劇場のネックになるところです。1幕だけで2幕以降は集中できたのが不幸中の幸いでした。



 以下蛇足です。
 最近読み替え演出について否定的な評論を目にしたので、時を超えて守り敬うべきは人間の英知と精神といったこの公演の内容に絡めて書き残しておきます。

 評論は「博物館に入れる」ことへの考察とはなっているのですが、演出が無政府状態と批判し、
>「博物館に入れてはいけない」と主張する人にかぎってオペラを、それが誕生したコンテクストから引きはがして「博物館」に放りこんでいる
との内容には違和感しかありませんでした。無政府状態が良くないのなら取り締まる組織を作れということなのか?表現の自由はないということなのか?考えようによっては読み替えも博物館に入れる価値があるともとれるかもしれませんが・・・・。
 全く説得力のない評論でありましたが、読み替え演出を嫌う人達は原典にこだわりすぎて現代に生きる人間の英知と精神を軽視する傾向があるのではないでしょうか?
>ヴェルディ作品について時代設定や場所を変えてはヴェルディが作品に込めた精神性を含めた世界観から遠ざかる
とも書いてありましたが、こういう人はヴェルディの世界観はこうあるべきというものがあって、他の見方は認めないという排他的精神の持ち主としか思えません。地域限定でしかヴェルディの世界観は存在しえないのか?同じような経験をしている人達がその時代、土地と重ねることもいけないのか?どこか分からない、いつの時代か分からないことにして一般化することでより多くの人の共感を誘うこともあるのではないか?ある人にとっては意味不明であっても、深い意味を感じ取る人もいるのではないか?そういった可能性を考慮できないのは作品の可能性だけでなく鑑賞する側の知識や想像力をも過小評価しているのであって、このような批判はどれだけ見識があろうと宝の持ち腐れ、想像力の貧困さを露呈しているにすぎません。答えが一つしかないものに興味を持つでしょうか?知的好奇心を奪われることほど空しいことはありません。制作する側が思いもよらない深い意味を鑑賞する側が見出すことだってあるかもしれません。もちろん人それぞれ作品によって良し悪し、合う合わないがあるのは当然ですが、さまざまな解釈や感想があることこそが健全なのです。原典と伝統も尊重されるべきものではありますが、読み替えも同じように尊重されるべきものであって、自身の拘りや固定観念で関係ない読み替えと断定し、滑稽とまでいうのは偏狭的な見方と言わざるをえません。逆手にとれば滑稽だからこそ面白いという場合だってあって良いとさえ思います。
 このようなことは現在のドイツとイタリアの現状を鑑みれば既に答えは出ていることであって、今時の読み替え演出批判こそ滑稽のような気もします。
 今まで良いと思えたヴェルディ作品は全て読み替え演出でありました。演出家を目指す若者達も伝統重視だけで土地、時代を変えてはいけないなどの制約を課せられてやりがいを持ち続けることができるでしょうか?博物館に入るというのは古い伝統的な演出を指しているのではなく、制作する側にしろ鑑賞する側にしろ興味を持つ人が減少し、やがて上演機会が失われることへの警告なのです。

 基本的にオペラ、楽劇の本質は音楽、つまり聴覚こそが重要で演出は視覚です。作曲家の英知と精神を無視して本質を逸脱し阻害することは、悲劇の途中でファンの集いがごとくアンコールをやらかしたり、音楽無視でブラヴォーや拍手をかぶせたりすることで、そういった点で作曲家が気の毒で聴きに行きたくないというのがヴェルディに興味を持てない一番の理由ですが、この辺はムーティ先生からお説教していただきたいくらいです。一方視覚である演出は全員がムーティ先生と同じ考えである必要はないと考えますし、いろいろあるからこそ興味深い、つまり多様性こそが求められるのです。
 聴覚が阻害されないかぎり、作曲家や台本家の精神は守られるというのが個人的見解であり、演出は現代人が作曲家と台本家と時を超えて共同制作できる場所なのです。

 なぜか蛇足のほうが理屈っぽく力入ってしまいました<(_ _)>オペラが博物館で展示されるだけになってもイタリアという国は他にも魅力で溢れているのでなんら問題ではないでしょう。それでも他の国へ活躍の場を求めて出て行った人達も祖国へ戻りつつあります。時代は常に流れているもの。ドイツ語圏も供給過多ぎみなので、かつての賑わいを取り戻すこともあるやもしれません。

ジークフリート・・Deutsche Oper Berlin・・2017/4/15 [オペラ]

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Conductor Donald Runnicles
Production Götz Friedrich

Siegfried Stefan Vinke
Mime Burkhard Ulrich
Wanderer Samuel Youn
Alberich Werner Van Mechelen
Fafner Andrew Harris
Erda Ronnita Miller
Brünnhilde Ricarda Merbeth
A bird Elbenita Kajtazi

 この日の演奏が4日間の内で最も良かった、というかマシだったというところ。前の2日間より鳴らしていたので混濁感は増していたのですが、抑揚、テンポの取り方が上手く、躍動感がありました。
 冒頭、セットにディズニーのような可愛らしさがあり、ジークフリートとミーメのやり取りが活き活きとして、歌手もこの2人が目立ってました。
 ジークフリート役のフィンケの声に少し柔らかさがあって、成長過程のわんぱく小僧といった印象なのが可愛らしさもあるセットに凄く合ってました。ニックネームをつけるとしたら小僧くん。親しみやすい声であるだけでなくスタミナも十分。
 ミーメ役のウルリッヒがこの小僧を相手に巧の技ともいえるような上手さを発揮して観客からも大きな賞賛を浴びてました。
 さすらい人は心労の果てにスキンヘッドになってしまったということなのか?見た目が少々怖い印象。このリングは5日間の公演ということで、ヴォータンが日替わりになるのは止むを得ないところです。ユンはしっかりと歌っているのですが、やや堅い印象になってしまったのはスキンヘッドという少々怖い見た目と、前日にヴォータンを演じたパターソンとの違いがあってのことで仕方ないかもしれません。キャリアとしても歌い込んだ役ではなさそうです。
 同じくブリュンヒルデもこの日だけメルベートが歌ったわけですが、リングでは今までジークリンデしか歌ったことがないようで、もしかするとロールデビューでしょうか?最終日のグートルーネ役も初役かもしれません。どちらもそれほど違和感を感じることはありませんでしたが、グートルーネのほうがしっくりしていた気はしました。新国の『ジークフリート』のブリュンヒルデなので、再度聴く機会があるのは楽しみです。

 全公演通して同じ人が歌うほうが統一感があって良いでしょうが、そうなると少なくとも1週間以上、普通は10日間前後かかってしまって鑑賞不可能。それを考えると日替わりでキャストが変わることの違和感など大きな問題ではありません。


ワルキューレ・・Deutsche Oper Berlin・・2017/4/14 [オペラ]

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Conductor Donald Runnicles
Production Götz Friedrich

Siegmund Stuart Skelton
Hunding Tobias Kehrer
Wotan Iain Paterson
Sieglinde Eva-Maria Westbroek
Fricka Daniela Sindram
Brünnhilde Evelyn Herlitzius
Helmwige Martina Welschenbach
Gerhilde Seyoung Park
Ortlinde Sunyoung Seo
Waltraute Michaela Selinger
Siegrune Annika Schlicht
Rossweiße Christina Sidak
Grimgerde Ronnita Miller
Schwertleite Rebecca Raffell

 トンネルはやはりスケール感があって良いのですが、この日古臭い違和感があったのはワルキューレ達の衣装がTV番組『不良少女と呼ばれて』を彷彿させるものだったこと。番組が放映されていたのがこのトンネルリングの初演と同じ1984年なので、当時の世相を反映しているかもしれません。こんなに大勢不良娘がいたらヴォータンの苦労はいかばかりかと思ってしまいました<(_ _)>

 歌手で最も声が出ていたのはウェストブルック。カーテンコールでも賞賛は大きかったのですが、個人的には決して良い意味で目立っていたとは思えず、絶叫ぎみで浮いているといった感があり、この辺は指揮者からアドバイスがなかったのかと疑問が残ります。これにつき合わざるをえず大変そうにみえたのがスケルトン。もともとオリジナルのキャスティングではなかったのが2週間前くらいにキャストチェンジで歌うことになったのですが、同じボリュームで歌い続けた結果、1幕終盤は息も絶え絶えながらなんとか歌ったというところ。ところが2幕になってから持ちこたえ、ヨレヨレ感は劇的信憑性といった面で良い印象になってました。
 良かったのはヘルリツィウスとパターソン。ヘルリツィウスは元々意思の強さが声に感じられる人ですが、ブリュンヒルデ役では少女らしい愛らしさも印象に残り、絶叫ではないコントロールされた表現の上手さがありました。パターソンは劇場のサイズの違いもあってか、シラーでさすらい人で聴いたときほど声の深みは感じられなかったのですが、それでも包容力のある声で、微妙な心の機微が現れていて巧みでした。

 この日もオケは控えめでワルキューレの騎行も薄っぺらい印象。ここは音響に問題があると以前感じましたが、連日聴くと問題はそれだけではなく、オケのレベルもいかがなものかと思わざるをえませんでした。

ラインの黄金・・Deutsche Oper Berlin・・2017/4/13 [オペラ]

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Conductor Donald Runnicles
Production Götz Friedrich

Wotan Derek Welton
Donner Noel Bouley
Froh Attilio Glaser
Loge Burkhard Ulrich
Alberich Werner Van Mechelen
Mime Paul Kaufmann
Fasolt Albert Pesendorfer
Fafner Andrew Harris
Fricka Daniela Sindram
Freia Martina Welschenbach
Erda Ronnita Miller
Woglinde Meechot Marrero
Wellgunde Christina Sidak
Flosshilde Annika Schlicht
Chorus Kinderchor der Deutschen Oper Berlin
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 長年親しまれたゲッツ・フリードリッヒ演出の通称トンネルリングがついに最終公演を迎えるとあって2年以上前にチケットを購入してありました。1984年初演ということでで30年以上続いた演出ですが、役柄設定に古臭さは否めない部分があるとはいえ、今では考えられないほどセットが充実していているだけでなく練り上げられた演出で、30年続くのも当然、続けなくては申し訳ないと思えるものでした。

 新国のリングも同じゲッツ・フリードリッヒの演出なので、役柄設定などはほとんど一緒。ドンナーは拳に白い布を巻いているのですが、やはりこの作品はドイツの作品と思わされるのは、日本人だと不自然に大きなグローブをつけているようで意味不明の役柄設定だったのが、大柄な歌手だと大きな握りこぶしにしか見えず、ほとんど演技などせず仁王立ちであっても無骨なドンナーと納得できてしまいました。巨人族兄弟も極高シークレットブーツではなく極高金属製下駄という違いだけ。最後のヴァルハラ城入場の行進ダンスも全く一緒等々、基本的には新国のプロダクションと同じということが多いのですが、奥行のあるトンネルがあるだけでスケール感に大きな違いをもたらしてました。

 歌手は総じて好演でしたが、一番良いと思ったのはローゲ役。声に飄々とした柔らかさがあるのがツボ。少々トボけたような何を考えているかわからない雰囲気があるほうがキーパーソンとして面白味があります。

 演奏は控えめ、アンビルの音もやたら可愛い音でしたが、ここは鳴らすと混濁するということを『ローエングリン』で嫌というほど実感したので、少々物足りないくらいのほうがマシかもしれません。ただ4日もこの劇場でワーグナーを聴くのには忍耐が必要でした。
 

オルフェオ・・・Opéra National de Bordeaux・・2017/3/14 [オペラ]

 3月の旅行は『アルシルダ』が最大の目的ではあったのですが、前後で何か古楽で良さそうな公演がないかと探したところ、この公演が目にとまりました。他にパリに立ち寄りたい用件もあったので前日にブラスチラヴァからパリまで移動し、この日ボルドーまでやってきました。フランスは何回も来てはいるのですが、いつもパリだけで地方都市はあまり行ったことがなく初めてのボルドーです。
 チケットを購入するにあたり、この公演の残席数が『アルシルダ』より更に少なく、4日ある公演のうち残席があるのは2公演のみ、しかも1席ずつという状況でした。この日残っていたのは4階席サイドで照明器具が設置されているため見にくい席ではあったのですが、そんな席であっても手に入れることができたのは幸いで、人気が高く売り切れになるだけの内容がある公演でした。
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DIRECTION MUSICALE Raphaël Pichon
MISE EN SCÈNE Jetske Mijnssen
CHŒUR ET ORCHESTRE Ensemble Pygmalion chœur et orchestre

ORFEO Judith van Wanroij
EURYDICE Francesca Aspromonte
ARISTEO Giuseppina Bridelli
VENERE PROSERPINA Guilia Semenzato
AUGURE PLUTONE Nahuel Di Pierro
NUTRICE AMORE Ray Chenez
SATIRO Renato Dolcini
VECCHIA Dominique Visse
ENDIMIONE CARONTE Victor Torres
MOMO Marc Mauillon
APOLLO David Tricou
PREMIÈRE GRÂCE Alicia Amo
DEUXIÈME GRÂCE Violaine Le Chenadec
TROISIÈME GRÂCE Floriane Hasler
PREMIÈRE PARQUE Guillaume Gutiérrez
DEUXIÈME PARQUE Olivier Coiffet
TROISIÈME PARQUE Virgile Ancely
FIGURATION Aude le Bihan

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 『オルフェオ』というとモンテヴェルディが有名ですが、これはルイージ・ロッシの作品でフランスで上演された初めてのイタリアオペラだそうです。
 歌はソロ、重唱、合唱など変化に富んでいますが、歌った後に拍手をするようなアリアではなく、むしろ楽劇といった様相で、最初の一音から最後の一音まで拍手が被ることなく物語に集中して鑑賞することができました。

 冒頭ハープの独奏が流れる中、一人佇むオルフェオ。最後も全く同じシーンに戻る。時代を現代に置き換え、エウリディーチェを失ったオルフェオの回想と幻想が交錯する演出。目新しい手法ではないかもしれませんが、活き活きとした登場人物が紡ぎだす物語は哀愁を帯びた秀作となってました。
 セットは木造の壁に囲まれた空間に椅子とテーブルがあるだけ、黄泉の国では動物の被り物をした人達や羽を身に着けた神々が登場するのですが、その被り物や羽がセンス良くオルフォの幻想空間を創り上げてました。
 
 物語の特徴としてモンテヴェルディの作品では出てこないアリステオ(アリスタイオス)というオルフェオと同じアポロの子が物語のキーパーソンとして登場します。オルフェオの恋人であるエウリディーチェに思いを募らせ、気を引こうとして巡らせた策略がエウリディーチェを死に至らせてしまうという話です。元の話はギリシャ神話にあるのですが、元の話は策略ではなくアリスタイオスから逃げようとしたエウリディーチェが偶然に毒蛇に噛まれてしまうという内容です。
 前半はこのアリステオが歌う場面が多く、主役はオルフェオとエウリディーチェだけでなく、アリステオを含めた3人といっても過言ではありませんでした。
 登場人物が多い上に字幕はフランス語だけとあって、あらすじを調べたくらいでは分からない部分は途中あったのですが、この3人を中心に鑑賞して十分に充実感を味わえた公演でした。

 アリステオ役、エウリディーチェ役は共にイタリア人。美しく歌いながらも常に演技は自然体でほとんど演劇を見ているようでした。
 アリステオ役のメゾは素朴な印象の少年声。エウリディーチェが毒ヘビに噛まれた後に解毒剤を渡して助ければ彼女の気持ちが傾くと思い込んで毒蛇を用意してしまうという『恋は盲目』状態の愚か者です。毒蛇に噛まれた後になんとか解毒剤を飲んでもらおうと必死になっている様子、死なせてしまった後悔と罪悪感で打ちひしがれる様子など、純粋すぎて愚かな若者そのものでした。
 エウリディーチェ役のソプラノは1991年生まれ、まだ20代とあって外見も声も溌剌とした愛らしさ。 
 オルフェオ役のソプラノはオランダ人。役柄設定が知的で控え目なオルフェオで常に感情を抑え気味という印象でしたが、それゆえに漂う哀愁がありました。声も清楚で知的な印象で、エウリディーチェとの2人の重唱で共に引き立て合う美しさにはうっとりとさせられました。
 脇を固めた歌手の人達もそれぞれ個性ある役柄を好演。ピグマリオンのコーラスも素晴らしく、特に黄泉の国の場面では圧倒されるような凄みにゾクっとさせられたのでした。

 充実した公演の要はピション&ピグマリオン。チェンバロ、チェロ、リュートなどが優しく歌に寄り添い、間奏では密度が高く切れのある音でバイオリンが高揚感をもたらし、飽きることなく鑑賞できた公演でした。
 
 この公演を観てしまったが故に1月のウィーンの公演は影が薄くなってしまった感がありますが、自分自身の健忘症を棚上げにしているだけかもしれません。
 ネコは気がつくと棚に上がっている動物です。<(_ _)>

 
 

アルシルダ・・Pokladnica nová budova SND・・2017/3/12 [オペラ]

 1年以上放置して再開したのですが、一気に挙げた98公演の内、最もアクセス数が多いのは今のところ『エリオガバロ』で、他にもサバドゥスのコンサートなど古楽系の公演のほうがアクセスが多く、ネトレプコがエルザを歌ったドレスデンの公演はアクセス数が少ないという意外な結果になってます。古楽に興味を持つ人が増えているのでしょうか?

 ブラスチラヴァを訪れたのは初めてですが、ウィーンの空港から直通のバスがあり、45分で街の中心まで行けてしまいます。スロヴァキア国立歌劇場は1776年に建てられた歴史的な劇場と2007年にオープンした新しい劇場とがありますが、この公演は新しい劇場での公演でした。今回は1泊だけの滞在だったので歴史のある劇場で鑑賞しなかったのですが、また来る機会のお楽しみとしました。

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Conductor: Václav Luks
Stage direction and set design: David Radok

Arsilda: Olivia Vermeulen
Lisea: Lucile Richardot
Barzane: Kangmin Justin Kim
Tamese: Fernando Guimarães
Cisardo: Lisandro Abadie
Mirinda: Lenka Máčiková
Nicandro: Helena Hozová

Collegium 1704 and Collegium Vocale 1704
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 3月の旅行の最大の目的はこの公演。行こうと決めたのが1月末だったのですが、ここブラスチラヴァでは2公演しかないせいか9日は既に売り切れ、12日も安席しか残ってない状況でした。普通はお手頃価格席からなくなっていくのですが、ブラスチラヴァは物価が安く、最高額の席でも49EURなので良席からなくなってしまうのは仕方ありません。前方の端から3番目の19ユーロの席での鑑賞でしたが、それはもう病みつき[るんるん]になりそうなお得感でした。

 ヴィヴァルディの『アルシルダ』は初めての鑑賞で、なおかつ字幕はスロヴァキア語しかないわけですから、予習しない[猫]でもあらすじだけは調べて臨みました。

 演出のコンセプトは古往今来。
 舞台はブルーグレイのパステルカラーの壁に囲まれ、セットは晩餐のテーブルと透明な椅子でしたが、登場人物の衣装とかつらは当時の舞台様式、いわゆるHIP(Histrically informed performance)の様相で、なおかつダンスや登場人物の動きもバロックジェスチャーのようだったので完全にHIPの演出かと思いきや、登場人物の動きは徐々にに自然な動きになり、休憩後の後半になってミリンダがタメーゼに思いを打ち明ける場面からやたら脱ぎだし、最後は完全に現代の衣装になってしまいました。それだけではなく、大詰めに指揮者が舞台に登って指揮をするにいたっては物語は現在進行形という印象になり、なおかつ、オリジナルと異なり覆水盆に返らず、各々が我が道を行くという結末で複雑な人間の内面を浮き彫りにしたのも現代的な感覚の演出でした。
 物語は男性として生きることを強いられた女性が出てくる話ですが、HIP様式だった冒頭からその他大勢の中に女装の男性と男装の女性がいることも古往今来を意識した演出に思えました。

 聴きごたえのあるアリア満載の音楽と華やかさのある舞台に魅了されていたのですが、演奏のテンポが演出が現代的になるにつれゆっくり目になり、アンニュイな雰囲気になっていったのは、覆水盆に返らずという演出に合わせてのことかと思います。ただ例のごとく時差が抜けきらない2日目の夜とあっては演奏がゆっくりになるにつれ、徐々に黒目がまぶたの裏に入ろうとするのを抑えきれず・・・舞台にいる人から見れば白目をむいている観客がいるのは気持ち悪いに違いないので、しばらく目をつぶってしまった時があったのは無念<(_ _)>でありました。

 カーテンコールには演出家も登場し、賞賛に溢れてましたが、歌手で一番賞賛されていたのはCTのキム。シュヴェツィンゲンでエネアス役で聴いたときと同様の男前歌唱。くっきりとした声で声量もメゾと何ら遜色なく技術的にも聴かせてくれました。ただ今回は高音で乾き気味の声だったのが少々気になりましたが、エネアスを歌ったときはそういったことは気にならなかったので調子のせいなのか?いずれにせよまた聴く機会を楽しみにしたい人です。
 リゼア役の人の歌い方が音域によって声質が変わるのが少々気になったのですが、タップリとしたアルト声は歌い方も含めて個性的で存在感がありました。
 
 この公演は今後リール、カーン、ヴェルサイユなどで上演予定です。

ドン・ジョヴァンニ・・Opernhaus Zürich・・2017/3/11 [オペラ]

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Musikalische Leitung Riccardo Minasi
Inszenierung Sebastian Baumgarten

Don Giovanni Simon Keenlyside
Don Ottavio Mauro Peter
Donna Anna Susanna Phillips
Komtur Wenwei Zhang
Donna Elvira Layla Claire
Leporello Adam Palka
Zerlina Olga Kulchynska
Masetto Krzysztof Baczyk
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 3月の旅行は古楽中心。ブラスチラヴァでヴィヴァルディの『アルシルダ』ボルドーでロッシの『オルフォ』を鑑賞するのが目的だったのですが、日本からの到着日に思わぬ棚ボタがありました。

 オリジナルのタイトルロールは7月にバイエルンで鑑賞した『ボエーム』で好演していたモルナールで楽しみではあったのですが、なんと病欠で代役はキーンリーサイド。キーンリーサイドのドンジョを聴くのは初めてで、おまけにこの日はスポンサー付きの公演でチケットがすごくお得な公演とあって、たった25CHF、3000円くらいで鑑賞できるなんて申し訳なくなるくらいのお得感でした。

 代役となったキーンリーサイドは6日にここチューリッヒでリサイタルを終えた後、7日に帰国したのですが、次の日の8日には連絡を受けチューリッヒにトンボ返り、3日間のリハでこの11日の公演に臨んだそうです。この公演は初演ではなく再演なのでリハの期間は初演ほど長くはないでしょうが、それでも普通でない演出なので結構大変だったかと想像します。

 ここはいつも開演の15分前に観客席に入れてもらえるのですが、既に舞台には映像が写し出されてました。全身ピンクの作業着に水色のエプロンをつけた大勢の人達が看板に文字をペイントしている映像で、書いてあることは『裁判所に行きます』とか『神を恐れよ』等々。この全身ピンクの人達はその後黒子のような役回りで時々舞台に登場するのですが、黒い衣装ではなくピンクなのでピン子。最後には大勢のピン子がうじょうじょと舞台に登場・・・などと書くと少々、いや大分イメージするものが違う方向に行ってしまうので、桃色ということで桃子と書くことにしましょう。最後は大勢の桃子たちが舞台に登場してセットをトットと片付ける様子は劇中劇の様相も呈してました。
 舞台は奥に教会のセットがあり、『裁判所』『神を恐れよ』などと書いてあったことも含めて、傍若無人の不道徳者に神の裁きが降りないわけがないという意図があったのは明白でしたが、奇妙さ満載の軽いノリで仕上げていたのがこの作品の悲劇的側面を抑える効果となり、ブッファであることを強調した面白さになってました。

 ドンジョのキャラクターは完全に奇人変人。冒頭は獣の着ぐるみでアンナを襲い、途中の白髪の姿はバックトゥーザフューチャーのドクを連想しましたが、大詰めの晩餐の場面では羊の角のついた被り物という出で立ちで、外見からして終始普通でない傍若無人ぶり。一方レポレッロは実直な執事といった真面目な外見で、なおかつ片足を引きずる姿には、奇人変人のご主人様にほとほと困り果てているけれども雇ってくれていることに恩義を感じているという設定。この2人のからみが面白く、自然な流れで途中レチをドイツ語で入れるという変化球にも上手さありました。
 奇妙な場面が多々ある演出である一方で、ミナージ指揮の演奏は控え目で上品だったのが絶妙なバランス。歌いながら演技も要求される演出で、そのため音楽だけ聴いていると普通と異なるテンポの変化もなきにしもあらずでしたが、演技を伴っているので違和感はありませんでした。
 ここぞというアリアはゆっくりと歌わせていて、良かったのはオッターヴィオのペーター。おおらかで柔らかな歌声は聴きごたえがありました。
 地獄落ちの演奏も思いの外あっさりと軽い印象だったのですが、その後、重唱の背後で全身ピンクの桃子達がそそくさとセットを片付け始めるという演出には合っていて、こんな不届きものの話なぞトットと片付けて帰ろう帰ろう!といった軽いノリには最後まで徹底したブッファの精神を感じてしまいました。

 カーテンコールでキーンリーサイドは労うように出演者一人一人の肩や背中をたたいてましたが、急な代役で大変なことがあってもやりがいもあったことでしょう。どんな演出であっても代役であってもフィットしてしまうのはさすが百戦錬磨のベテランであります。
 チームワークよく一つにまとまった公演にカーテンコールは賞賛に溢れてました。
 
 演出は凡庸でも難解すぎても到着日は睡魔に襲われるハメになることが多いのですが、奇妙な演出は脳に適度な刺激となって、到着日にもかかわらず全くウトウトすることなく楽しめた公演でした。

夢遊病の女・・Wiener Staatsoper・・2017/1/13 [オペラ]

DIRIGENT Guillermo García Calvo
REGIE UND LICHT Marco Arturo Marelli

Graf Rodolfo Luca Pisaroni
Amina Daniela Fally
Elvino Juan Diego Flórez
Lisa Maria Nazarova
Alessio Manuel Walser
Teresa Rosie Aldridge

 ユニコーンは姿を現さず、これでペガサスまで現れなかったら余程普段の行いが悪いということですが、しっかり姿を現してくれてホッとしました。もちろん見終わったあとはそれだけで満足感があったのは間違いありません。しかし、その後3月にも何公演か鑑賞すると1月に観た公演の中で最も印象が薄くなってしまったのはこの公演で、感想を書こうにも???

 それって、ただの痴呆じゃない?というのも否定できないのは情けないところではあるのですが、印象に残らないのはほとんど想定内の公演だったのが理由という感がなきにしもあらず。
 フローレスもピサローニもこれくらい歌えて当たり前。ファリーのコロラトゥーラがピッチが怪しいと感じる部分が少々ありながらも以前聴いたときよりも声の密度が高くなったようで、想像していたよりは良かったのですが、それでも新鮮な印象が残るというほどでもなく・・・・。
 バルトリの『チェネレントラ』でも同様の感想を書いたことがありますが、いくら素晴らしい歌手の人でも何回か聴いていると最初に聴いたときのような感動は得難くなってくるものです。

 そこで重要なのは演出であるのですが、スイスの雰囲気があって決して悪くはないけど面白くもないというのが正直なところ。
 ここウィーンは相変わらず演奏は上手いし、一流の劇場であることに何の疑いの余地はないのですが、保守的な演出ばかりで3日間も続けて鑑賞すると、当分来なくてよいかと思ってしまいました。取り組み姿勢といった面で、今時4回転ジャンプのない男子フィギュアスケートのような演出ばかりというのはいかがなものか?
 3日間続けてここで鑑賞したのが間違いだったのでしょう。
 それでもこういった普通の演出を好む人達は相当数いるので、このまま保守的な路線で存続する意義もあるのかもしれません。個人的には新国や予算のないイタリアだけで十分だと思うのですが・・・・。

 

 

死の都・・・Wiener Staatsoper・・2017/1/12 [オペラ]

DIRIGENT Mikko Franck
REGIE Willy Decker

Paul  Herbert Lippert
Die Erscheinung Mariens, Pauls verstorbener Gattin Camilla Nylund
Frank, Pauls Freund Adrian Eröd
Brigitta Janina Baechle
Juliette Simina Ivan
Lucienne Miriam Albano
Victorin Joseph Dennis
Graf Albert Thomas Ebenstein

 1月の旅行の目的はユニコーン(フォークト)&ペガサス(フローレス)。異次元ツアーといったところでしたが・・・ユニコーンは姿を現さず・・・・。
 改めてパウルという役は難役なのだと思い知らされたわけです。代役といっても引き受ける人を見つけるのは至難の業であろうことは想像に難くなく、代役を務めた人はウィーンのアンサンブルの人で、歌い通しただけでも立派なのかもしれません。
 『死の都』といえば喪失感に震災を思い出すのはパブロフの犬状態になってしまっているのですが、今回は思い浮かべてはいけないと思ってしまいました。終始[猫]を襲った喪失感はフォークトがいないという喪失感でしかなく、またいつか聴く機会もあるだろうという希望のある喪失感でしかありませんでした。
 
 演出は舞台奥にパウルの想像である空間がある分かりやすいものでしたが、マリーの遺髪は一部ではなくカツラのようで、そのためマリー役はスキンヘッドだったのが最初は少々違和感がなきにしもあらずでした。しかし、マリー役がスキンヘッドでも美しいニュルンドで、女優のようにも見える演出にはハマリ役でした。
 エレートはフランクとフリッツでは別人の趣で上手さは相変わらず。
 奥行と深みのある演奏は作品の美しさを伝えていて、またパウルに振られることがあったとしても懲りずに聴きに来ずにはいられないと思わされたのでした。

西部の娘・・・Wiener Staatsoper・・・2017/1/11 [オペラ]

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DIRIGENT Marco Armiliato
BÜHNENBILD Marco Arturo Marelli

Minnie Emily Magee
Sheriff Jack Rance Andrzej Dobber
Dick Johnson (Ramerrez) Aleksandrs Antonenko
Nick Carlos Osuna
Ashby Alexandru Moisiuc
Sonora Boaz Daniel
Trin Thomas Ebenstein
Sid Hans Peter Kammerer
Bello Igor Onishchenko
Harry Peter Jelosits
Joe Benedikt Kobel
Happy Clemens Unterreiner
Larkens Marcus Pelz
Billy Jackrabbit Ryan Speedo Green
Wowkle Ilseyar Khayrullova
Jake Wallace Orhan Yildiz
José Castro Orhan Yildiz
Postillion Wolfram Igor Dernt
 
 ウィーンに来た目的はフォークトの『死の都』&フローレスの『夢遊病の女』で、この日はオマケといえばオマケではあったのですが、アントネンコを聴くのは初めてということで楽しみではありました。

 2013年にプルミエだったはずの演出ですが、一体どこに新しさがあるのかと思うほどフツー。しかし、何か新鮮さを示したかったのか?最後ミニーとジョンソンが旅立つ乗り物が客席から笑いが漏れるようなもの。その後の幕引きがかなり重い演出であるだけに、この乗り物はいかがなものかと思わざるをえませんでした。
 
 アルミリアート指揮の演奏の鳴らしっぷりはたたみかけるような緊張感をもたらすものでしたが、反面、抒情的な印象は希薄で、ミニーの小屋で愛を確かめ合う場面も浪漫的というより、その後の切迫した状況への序章のような雰囲気でした。
 歌手の歌い方は歌うというより台詞を言うように途切れがちに聞こえ、楽劇といった様相を呈すものでしたが、たたみかけるような緊張感は迫真の演技を伴ってミニーとランスとのカードゲームの駆け引きでピークに達したというところでした。
 
 アントネンコは張りのある良い声でしたが、途切れがちな歌い方だったことで良いのか悪いのかわからないといった感あり、しかし以前同役で聴いたことがあるマギーも今回は途切れがちに歌っていたという印象だったので、アルミリアートの意図でそういった歌い方にしたのか?爆演でそういった歌い方をしたほうが楽だったのか?

 決して悪い公演ではなかったのですが、鑑賞する自分自身の心構えがオマケだったこともあって、オマケはオマケでした。
 
 

アルチーナ・・・Opernhaus Zürich・・・2017/1/10 [オペラ]

 今年に入ってからも2回遠征して7公演鑑賞しているのですが、既に忘却が進みつつあり、これ以上溜めるとまたとてつもなく書くのが面倒になる気がするので、これからは印象に残っていることを1公演ずつあげていこうと思います。
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Musikalische Leitung Giovanni Antonini
Inszenierung Christof Loy

Alcina Cecilia Bartoli
Ruggiero Philippe Jaroussky
Morgana Julie Fuchs
Bradamante Varduhi Abrahamyan
Oronte Fabio Trümpy
Melisso Krzysztof Baczyk

Orchestra La Scintilla
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 演出は劇中劇。アルチーナ、モルガーナ、ルッジェーロは役者さん。冒頭ドロットニングホルムやチェスキークルムロフのようなバロック劇場で当時のスタイルで歌うのがお洒落で可愛らしく、見た目も華やかな演出でした。モルガーナとメリッソはスーツ姿で現れ、共演者であるアルチーナの虜になってしまったルッジェーロを取り戻しにくるという設定。オベルトの場面はカットでしたが、全く不自然さはありませんでした。

 バルトリの公演はどうしてもバルトリに注目が集まってしまいがちですが、今回は他の歌手の人達がそれぞれ個性のある密度の高い声で技術的にも聴かせてくれたので、声だけに言及すると一番魅力に乏しいのはバルトリではないかと思えてしまったほど。しかし、弱音での繊細なコロラトゥーラには微妙な女心にホロリとさせられるものがあり、やはりバルトリは凄いと思わされたのです。
 ルッジェーロ役のジャルスキーは同役をエクスで聴いたことがあり、その時も良かったのですが、ベタッとした音響調整感で耳が疲れて不覚にも途中ウトウトしてしまったのでした。今回は到着日ではありましたが、途中ウトウトすることもなく濃密な声とアジリタを堪能させてもらいました。舞台センスもすごく良くてルッジェーロという役はハマリ役。後半の聴かせどころSta nell'Ircanaはダンサー達に交ざって体育会系ダンスや腕立て伏せをしながらも見事に歌い、すごく楽しい見せどころでもありました。ただし、どうしてもダンサー達の体育会系ダンスはバタバタと音がしてしまい、せっかくの聴かせどころなのに勿体なく、音をたてない体育会系運動にできないものかとも思ったのでした。

 他の出演者の人達も良くて満足感の高い公演で、カーテンコールは賞賛に溢れてました。