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皇帝ティートの慈悲・・Felsenreitschule・・2017/8/13 [オペラ]

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Teodor Currentzis, Musikalische Leitung
Peter Sellars, Regie

Russell Thomas, Tito Vespasiano
Golda Schultz, Vitellia
Christina Gansch, Servilia
Marianne Crebassa, Sesto
Jeanine De Bique, Annio
Willard White, Publio

musicAeterna Choir of Perm Opera
Vitaly Polonsky, Choreinstudierung
musicAeterna of Perm Opera
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 クレンツィス&ムジカ・エテルナの公演はこれまでコンサート2回とルールトリエンナーレの『ラインの黄金』、その他、オケはムジカ・エテルナではありませんでしたが、チューリッヒでクレンツィス指揮の『マクベス』を聴いてます。いずれも新鮮な印象の残る秀作でありました。
 当然今回も・・・・と思って臨んだわけですが・・・今回は集中して鑑賞することができず、途中でどうでもよくなってしまいました。<(_ _)>
 
 これまで鑑賞した公演と何が違ったのか?『ラインの黄金』や『マクベス』では演出家と指揮者のコンセプトが完全に一致し、手法に演出と演奏が相乗効果を生み出す秀逸さがあり、なおかつコンセプトを具現化できる適材適所の歌手が揃ってました。今回は演出と演奏のコンセプトの統一という面では間違いなく一致していたのですが、問題はその手法。そして歌手全員が適材適所だったかといえば、そうだった人もいれば、疑問が残った人もいたというところ。
 
 舞台セットは閑散として殺風景。演奏の極端なテンポの変化と頻繁に繰り返された長い間合い。さらには休憩後、クレンツィスもオケピに入り、客席が静まり返って始まるのを待っていたのですが、精神統一のためなのか?舞台セットが整わなかったのか?分かりませんが、結構長い間待ったのには、トットと始めましょうよ・・・と思ってしまい、[猫]の公演に対する集中はプッツン、プッツン、ついにはどうでもよくなってしまったという次第。

 演出は現代の世相を反映して、テロに至るまでの実行犯の苦悩と被害者の寛容さを表した読み替え。それを立場を変えて示したかったという意図があるかのように、テロ実行犯となるセストとその妹に白人、その他は黒人という配役でした。そういったキャストの選び方があっても良いとは思います。黒人の歌手の人は今までも何人も聴いてますが、特に書く必要もなかったので、感想でそれを記述した記憶はありません。今回も全員が音楽的にも適材適所だと思えれば気にも留めなかったかもしれません。ただし音楽面で少しでも疑問が残った場合、話は少々違ってきます。ザルツブルクという国際的な音楽祭で、メッセージ性が音楽面より重視されたかのような配役はいかがなものか?という違和感が残ってしまったのは否めません。

 これまでに鑑賞した公演が秀作だったがために否定的なことを先に書いてしまいましたが、もちろん良かった面も多々あり。演出に合わせて同じモーツァルト作曲の他の作品を挿入したり、木管奏者が舞台に上がってセストのアリアに寄り添って演技しながら演奏するなど効果的で面白い趣向でした。

 もともとタイトルロールよりもセストやヴィッテーリアのほうが目立つ作品ですが、今回は演出によって、セストが特に際立っていた感があり、クレバッサの好演があってこそといった印象が残った公演でした。遠目でみているとオーランド・ブルームの弟かと思うような美少年で、日本ではまだそれほど有名ではないですが、既に欧州各地の一流劇場で主役級を歌っているだけの実力が歌唱、演技共に備わっている人だと改めて思ったのでした。
 ヴィッテーリア役のシュルツもきれいな歌唱だったので調べたところ、バイエルン歌劇場のアンサンブルと判明。自然な安定感はやはり第一線で舞台慣れしているという印象でした。
 ただ今回のようなメッセージ性が強い演出だと目立つ役と目立たなくなってしまう役がでてきてしまう面があり、そのためか否かカーテンコールは一人ずつではなく全員一緒に出てきましたが、全員で制作した作品という心意気に満ちていたのは好感がもてました。

 ムジカ・エテルナはオケピの中でも基本の立奏は崩さず、演奏してないときだけ着席してました。
 またムジカ・エテルナの合唱の上手さはエクスで聴いた『イオランタ・ペルセフォーヌ』(今回と同じセラーズ&クレンツィスでしたが、鑑賞した日はクレンツィスが降板)を思い出しましたが、同じ演出家ということもあってか動き方がその時と似た雰囲気で、上手さも想定内といった印象にとどまってしまった感があります。

 以下は度々書いてしまうことですが・・・
 なにかとお聞き通し感だの想定内だのと言ってしまう[猫]のような観客は、制作する側にしてみれば、飽きっぽいだけの嫌なヤツかもしれません。制作する側とすれば成功した手法は次も生かしたくなるのは当然で、常に何か新しいものを創り続けなくてはならないとなると・・・やってられないっすヨ・・・という声も聞かれそうです。それに10割打者など存在しないように、どんな歌手でも指揮者でも演出家でもオケでも常に上手くいくとはかぎりません。鑑賞する側の個性もそれぞれですから、良いと思えるときもあればそうでもないときがあるのは自然なことであります。
 それでも興味のある公演を選んで聴いていると、来た甲斐のある公演のほうがそうでない公演よりはるかに多いので、制作する人達の才能はまだまださまざまに開花するに違いなく、今後も[猫]はそれを求めてあちこち出没します。
 

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パルジファル(コンサート形式)・・Turun Konserttitalo・・2017/8/12 [オペラ]

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Parsifal: Klaus Florian Vogt, tenor
Kundry: Karita Mattila, soprano
Gurnemanz: Matti Salminen, bass
Amfortas: Waltteri Torikka, baritone
Klingsor: Robert Bork, bass
Titurel: Juha Kotilainen, bass
Chorus Cathedralis Aboensis
Turun filharmoninen orkesteri
Ville Matvejeff, conductor
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 我ながらよくここまでやってきたものだと思ったフィンランドのトゥルクでの公演。14時からの公演だったのでヘルシンキに2泊して日帰り。H/P上で上演時間が4時間半となっていたのは疑わしいものだと思ってましたが、結局のところ主要登場人物以外の場面はカットした上演で終演は19時頃でした。
 一番の目的はサルミネンのグルネマンツ。サルミネンなら9月に来日してくれるのにわざわざそんなに遠くまで行くなんてアホちゃう?そう、アホです。否定しません。でも[猫]が聴きたいのはザラストロではなく、グルネマンツなのです。今まで残念ながらハーゲンなどハマリ役を歌っていた頃のサルミネンは聴いたことがなく、超ベテランになってからダーランド役で聴いたことがあるだけで、このまま聴く機会なく引退してしまっては少々寂しすぎる。以前のような歌声は無理であってもグルネマンツなら長老とあって今のサルミネンを聴くのには最適と思えたわけです。実際に1幕の朗々とした語りは劇的信憑性抜群でした。
 タイトルロールはフォークトですが、バイロイトのマイスタージンガーの公演が7日から15日まで間が開いていたのはトゥルクでパルジファルが2公演あるからでした。
 会場は客席数1002席とそれほど大きくなく、フォークトも以前より体格がよくなったせいか、2幕「アンフォルタス!」からの変身ぶりは以前よりもパワーアップして聞こえ、ほとんど超サイヤ人。フォークトのパルジファルは汚れなき愚者からの変身ものといった雰囲気でありますが、間違いなくテンションがグッと上がる醍醐味は他の人ではなかなか味わえないものです。ただフォークトのパルジファルを聴くのは6年ぶりで、声が以前より硬質になってきたせいか、汚れなき愚者のとき、どこから来たかな?という不思議くんたる所以の???感は以前ほど???ではなくなった気がしないでもありませんでした。
 この超サイヤ人と化したフォークトが相手とあってはロールデビューだったかもしれないマッティラは全力投球せざるをえないわけで 、まだ譜面は手放せない状態ではあっても気持ちは凄く入った渾身のパフォーマンス。歌い終わった後、席に座って肩で息をする様子にワーグナー歌いはアスリートだと思ったのでした。声が重くなったとはいえ、まだリリックな面があるのでワーグナーだったらジークリンデの方が合いそうではありますが、歌い方で妖艶で謎めいた雰囲気は出せるベテランですから、今後演出つきの公演でも聴く機会があることでしょう。
 他の出演者も良かったのですが、こういっては失礼ながらほとんど期待していなかったオケの演奏も感涙ものでした。
 オケの編成数は当然会場の大きさに合わせていて、全部の編成は確認できませんでしたが、低弦はチェロ、コントラバス共に5台づつ。演奏に深みが若干希薄で2幕冒頭のクリングゾルのシーンの凄みといったものも物足りなさがなきにしもあらずという面があっったのはやむを得ないのかもしれませんが、3幕の柔らかな救済感は感動的で、はるばるやって来た甲斐が大いにあった公演でした。

 さて、話は変わって会場に入って最も驚いたのは女子の多さ。[猫]の前列などは端から20名数えて男子の割合はわずか1割の2名。全体的にざっと見回しても6割以上、7割くらいは女子ではないかという程だったので、臨席の人にいつもこのような状況なのか尋ねたところ、カルチャー行事は女性のほうが興味を持つ人が多いとのこと。休憩時は当然トイレが長蛇の列でありました。
 さてさて、またまた話は変わって全く公演には関係ない話で女子男子という言葉について。女子男子とは成人にも使う言葉であるのは広辞苑でも明らかですが、何故か女子と言えるのは何歳までか?という意味不明な話があるので、あえて時々使おうかと思ったりしてます。ゴルフ場正会員の細則に「一定の年齢に達した男子とする」という記載があることが五輪関係で話題になってましたが、何歳まで?とは誰も疑問に思わないのに、どうして女子は何歳まで?ということになるのでしょうか?

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ジークフリート・・新国立劇場・・2017/6/14 [オペラ]

指揮 : 飯守泰次郎
演出 : ゲッツ・フリードリヒ

ジークフリート  ステファン・グールド
ミーメ  アンドレアス・コンラッド
さすらい人   グリア・グリムスレイ
アルベリヒ   トーマス・ガゼリ
ファフナー   クリスティアン・ヒュープナー
エルダ   クリスタ・マイヤー
ブリュンヒルデ   リカルダ・メルベート
森の小鳥  鵜木絵里 九嶋香奈枝 安井陽子 吉原圭子
管弦楽 東京交響楽団

 日本の公演はほとんど行かないのですが、オラが村の歌劇場にはたまには足を運ばなくてはいけない気がしてリングだけは参加してます。
 某所でリングを聴いたことで新国の株がアップ。この劇場は変な音響もなく良い劇場であることが何よりで、充分に楽しめた公演でした。

 今回も歌手陣は充実。演奏も前2作よりも良く、3幕こそここが聴かせどころとばかりの冗長感が若干ありましたが、歌手と一体となってワーグナーの世界観を伝えることに成功してました。

 グールドが全4公演に出演してくれることが大きな魅力になっていることは間違いありませんが、今回はアルベリヒとミーメ兄弟の迫真のやり取りも印象に残りました。

 演出については特に書くこともなし。全く個人的に勝手なことを言わせてもらえるなら、以前のウォーナー作品4作のうち前半2作を見損なっているので、またもどしてもらいたい気がしないでもないのです。
 
 演出はともかく、『神々の黄昏』も楽しみにしておきます。
 
 

タンホイザー・・Bayerische Staatsoper・・・2017/6/4 [オペラ]

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Musikalische Leitung Kirill Petrenko
Inszenierung Romeo Castellucci

Hermann, Landgraf von Thüringen Georg Zeppenfeld
Tannhäuser Klaus Florian Vogt
Wolfram von Eschenbach Christian Gerhaher
Walther von der Vogelweide Dean Power
Biterolf Peter Lobert
Heinrich der Schreiber Ulrich Reß
Reinmar von Zweter Ralf Lukas
Elisabeth, Nichte des Landgrafen Anja Harteros
Venus Elena Pankratova
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 バイエルンのタンホイザー、日本公演を控えているとあって話題にならないわけはありません。
 不思議くん、ユニコーンなどと呼んでしまうほど圧倒的な声の力を持っているフォークトのロールデビューですが、今までのヘルデンテノールとは明らかに異なるタイプであり、これからもこのようなタイプの人が現れるか分からないと思うほどであります。今までとは異なるがゆえに違和感があるという人がいるかもしれませんが、今までとは異なるからこそ新しい『タンホイザー』にしようという意欲が指揮のペトレンコにも演出のカステルッチにも全面的に現れていた公演でした。

 カステルッチの演出は異次元の声には異次元の空間をとばかりに時空を超えた演出。
 ペトレンコ指揮の演奏は美しい音で歌手の声に優しく寄り添うかと思えば、全てを包み込むように広がる様は変幻自在。今まで聴いた『タンホイザー』と異なる部分があるような気がしたのですが、ウィーン版を元に一部ドレスデン版を採用したとのこと。そういった意味でも今まで聴いたことがない『タンホイザー』でした。
 
 日本公演を控えているのであまり詳細を書くことはよろしくないのですが、抽象的でさまざまなことを示唆する演出は、その解釈において何が正しく何が間違っているということもなく、人それぞれの解釈が可能という柔軟性がありながら、大筋では多様性を示唆しつつ最後は観ているものを一種の悟りへと導くものでした。

 既に映像配信もあったようですし、人それぞれ解釈が可能な演出ということで、個人的な感想を書いたとしてもどうということはないでしょう。

 序曲では何本もの矢が放たれ、その的は目と耳。それは既存の作品の記憶を忘却へと導き、新しい『タンホイザー』になるということを示唆していると共に、光陰矢のごとく時空を超えるということも暗示していたようでした。
 一幕、肉欲の世界から脱出し、堕落から抜け出したはずが待ち受けていたのは無益な殺生をする血生臭い世界だということに愕然とするタンホイザー。価値観の多様性を示すことで、この演出はタンホイザーを単なるダメ男にはしていませんでした。
 二幕は古代。登場人物の衣装にはギリシャ風、エジプト風、アラブ風など民族の多様性が表れ、歌合戦に参加する騎士たちも日本の白装束のような衣装でした。
 三幕は数千年後、数百万年後・・・遥か遠い未来。
 タンホイザーとヴォルフラムの役柄設定が対照的だったのが印象的で、激昂のタンホイザーと達観のヴォルフラムといった様相。多様性の間で矛盾を抱え激昂するタンホイザーは思春期の少年のようであり、全ての感情を飲み込むように穏やかな抑制を保つヴォルフラムは諸行無常を唱える僧侶のようでした。
 フォークトのタンホイザーは初めてなので他の演出での歌い方と比べようもありませんが、シラーで聴いたゲルハーハーのヴォルフラムは言葉一つ一つを大切に感情を込めて歌い、正に詩人といった印象だったことを思い出すと、今回はそれとは明らかに異なる表現でした。
 ハルテロス演ずるエリーザベトは愛する人のために一人の女性であることを捨てた聖女。凛とした美しさは歌声と共に輝いてました。
 ツェッペンフェルト、パンクラトヴァをはじめ脇を固める歌手も盤石で、一言で感想を書くとすると、歌と演奏が創る世界に圧倒され続けた公演でしたが、それも歌手は常に舞台前方で自然体で歌に集中できる演出で、舞台後方でその他大勢が何かを示唆するように演技をするという手法が功を奏しているように思えました。

 終盤大きく広がる音楽の中、最後に舞台上で示された収束は「悟り」のような安息をタンホイザーにだけでなく観客にももたらすものでした。
 どれだけ多様性があろうとも生きとし生けるもの全てがやがてひとつになる。
 多様性が故に混沌とし続ける現代社会に一石を投じるかのような秀作でした。

 ペトレンコが2幕終了時、楽譜をめくってここだとばかりに指をさした後、オケピに残ってチェロのメンバー達と何か話し合ってました。表情は穏やかでしたが、何か問題でもあったのか?素人には皆目見当もつきませんでしたが、理想とする音楽を追及する真摯な姿勢が垣間見れ、そういった姿勢も今やベルリンフィルを担うまでに至った要因の一つなのかもしれないと思ったのでした。

 もちろんカーテンコールは賞賛の嵐。