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仮面舞踏会・・・Teatro alla Scala・・・2013/7/25 [オペラ]

これぞヴェルディイヤーに相応しい、若きイタリアの才能がヴェルディを生き生きと蘇らせた公演でした。
おかげで今回の旅行も凸で始まり、凸で終わることができたので満足感の高いものとなりましたが、
これが凹だとヴェルディを聴きにきてヴェルディ全滅というお粗末な結末となったので、一段とヴェルディ離れが進んだことでしょう。
それになんといっても美しい音と歌手の素のままの声、マルちゃんの声、ルチッチの声が聞けたのが嬉しいことで、一流と言われる歌劇場はこうでなくてはと改めて思ったのでした。

Conductor Daniele Rustioni
Staging Damiano Michieletto

Riccardo Marcelo Álvarez
Renato Zeljko Lucic
Amelia Oksana Dyka
UlricaMarianne Cornetti
Oscar Serena Gamberoni

イタリアでヴェルディとなれば、どうせカビがはえそうな演出と思い込んで臨みましたが、幕があくと・・・
あれ?ここはミュンヘンだったっけ?と一瞬思ってしまいました。
とんだ偏見でした。
この公演を観ようとチケットを手に入れた段階では演出がミキエレット、指揮がルスティオーニと二人の若きイタリアの才能の共演ということで、それも楽しみだとは思っていたのですが、日々いろんなことに忙殺されてすっかり忘れてました。

ミキエレットの演出ですが、現代の選挙戦に物語を置き換えたもので『仮面舞踏会』の要素ともいえる政治的背景を打ち出し、なおかつリッカルドのアメーリアへの愛情と配慮、さらにはカリスマ性をも表現していた秀作でした。
登場人物のキャラクターと心情の変化がくっきりと浮かび上がってくるもので、舞台でくりひろげられる人間模様は全く『仮面舞踏会』の話を知らない人でも没頭できたのではないかと思います。
ミキエレットの演出は舞台で現れていること以上の広がりを観客が想像できるところにその魅力があります。
ザルツのボエームではおもちゃ箱をひっくり返したような色合いと大きな窓、そして最後に子供の手が出てきただけですが、それでおじいちゃんになったロドルフォが孫にミミのことを語っているような想像ができました。
今回は最後の場面・・・・
死にいたるようなキズを受けながら歌うのは、表現力の見せ所ではあるかもしれませんが、ミキエレットは通常とは異なる手法でリッカルドの器の大きさ、カリスマ性といったものを強調することに成功しています。
リッカルドは死に、リッカルド役のマルちゃんが歌っている内容は遺書のごとくしたためられた手紙をアメーリアが読んでいるという設定です。
この手法はダニエルズ演出の『イル・ポスティーノ』でも取られてましたが、実に説得力があり、ジーンとさせられるものがあります。
観客はリッカルドがどんな思いでこの手紙を書いたのか想像せずにはいられません。
自らの命を狙われているのを知り、自分の命がなくなったとしても、アメリアの潔白を証明しておかなくてはと書いたとすると潔さと共にアメーリアへの思慮深い配慮と深い愛情を物語るものでしょう。
その前に他人の女房に惚れるなんて配慮もへったくりもないヨ・・・というツッコミはありますが、そうすると元も子もないので^^;

この演出で惚れ惚れするほど決まってしまったのがマルちゃん。
エクスでお会いした方からキャンセルした日もあったと聞いていたので、どうかと思いましたが、声の張りこそ絶好調とまではいかなかったかもしれませんが,その声は爽やかな輝やきがあり、誠意と正義感に溢れた人柄を伺わせるに十分でした。
今まで聴いたことのある役はロドルフォとホセですが、今回印象が違って聞こえたのがその爽やかさ、潔さが全面的に出ていたところです。
しかし、変わらないのはおおらかな包容力があるところで、リッカルドの器の大きさを物語るのにマルちゃんほどの力量を持つ人はいないでしょう。
死んだ後はさらに格好よく、レナートに穏やかに切々と語ったあと、最後にaddioと伸びやかに声を放ち、後ろ向きで天を指す姿はカリスマとして人々の心に永遠にとどまる姿であり、悲劇というだけにとどまらず、リッカルドの魂が人々の心に生き続けるであろうことを示唆するような感動でした。

今回の旅行で日本人でない方に日本語で話しかけられてちょっと驚いたのですが、オペラ歌手の勉強をしていて、以前日本に何年間か住んだことがあるとのこと。
オペラ歌手になるための勉強の中には演技をしながら指揮者を見る技術も学ぶそうで、視線は指揮者の方を向いてなくても指揮者を見るというのですが、なかなか難しそうです。

これぞイタリアオペラという一列横並びでももちろんよいのですが、劇的信憑性をもたらす演技をしながらも見事な歌声を披露してくれるマルちゃんをはじめとした歌手の姿勢は、これぞ超一流と納得させられるものでした。

アメーリアのディカとレナートのルチッチは二人とも抑え気味の演技。
3幕の二人の住居のシーンでは抑え気味だからこそ決定的に入ってしまった亀裂が信憑性を伴い、アリアでこめられる思いが一層強く観客に伝わるものがあり、特にルチッチの「おまえこそ心を汚すもの」には観客からブラヴォーの声が思わず上がってしまいました。
普通の善良な人間に殺意が生まれるまでの心境の変化の描写が上手いのですが、
3,4才の子供を登場させるという演出は心憎いようでもあり、やや反則ぎみのようでもあり。
子供を愛おしく抱くレナートの姿は家族を大切にする普通の父親の姿。
しかし、誰が殺害を実行するか決めるクジをアメーリアが引くのをためらっていると、なんと子供に引かせてしまうのは残酷すぎるような・・・
パーティの場面ではリッカルドの等身大のパネルがズラリと並び、その背後に行ったり来たりするレナートの姿の怖さことといったら、氷のような冷たさ。
ルチッチは抑え気味の中にもちょっとした姿勢や仕草で信憑性を持った演技ができる人です。

他の出演者も良かったですが、失礼して省略。
ディカとコルネッティははトリノの来日公演で聴けますから楽しみにしましょう。


何を長々と書きたいかというと、
指揮のルスティオーニ!
バッティストーニ、マリオッティと並んで話題になることが多い期待の星の一人ですが、他の二人同様、若造は若造だろうヨ・・・・とそれほど期待はしてませんでした。
これもとんだ偏見_(._.)_ 
今回の旅行の一番の発見!
いや、今年一番の発見かもしれません。
『仮面舞踏会』ってこんな美しいメロディーがあったっけ?というほど美しい音色をオケから引き出していて、その流れは無理がなく、あくまで自然のうちに物語を語り続け、百戦錬磨の歌手陣やオケのメンバーを率いて見事に公演の要の役目を果たしてました。
歌手の人達がその流れに乗り、役に没頭できたからこそ、演技に歌に劇的信憑性が生まれていたに違いありません。
音色の美しさは野に湧き出たピュアな水が陽光を浴びてキラキラと柔らかく輝きながら流れていくようであり、その淀みのない、あくまでも自然な流れは構築という言葉を使うのも人為的ではばかれるくらい自然な美しさ。
ヴェルディ独特の重唱での煽りなどは結構煽ってるのですが、それも強引さがないので歌手の人達は我が意を得たりとばかり、高揚感を増したのでした。
ん?どうしても文句をつけてほしい?
強いて言うならば、テンポが早く、美しくまとまりすぎてコンパクトな印象だったかもしれません・・・・が、
演出と合っているテンポでしたし、スケール感をだそうとすればとかくわざとらしくなってしまうので、あちらを立てればこちらが立たず・・・・
文句なしで花マル[かわいい]でよいかなーと。

ただあまり若いうちから出来上がってしまうというのもどうなのかというところはありますが、それも複数公演をご覧になった方によると、あまり出来がよくなく、モッサリとしていた時もあったと聞いて、逆にホッとするような気がしてしまいました。
若いうちはいろいろ失敗があってもよさそうです。
指揮する姿は奏でる音楽の自然な美しさに反して意外と体育会系
舞台に集中できたので、指揮は時折目をやった程度ですが、ジャンプし続けたり、前後に体を揺らし続けたり、全身メトロノームのような動きをするのが特徴的で、両手はそれほど振り回さず要所要所で各パートに支持をするといった様子でした。
この人間メトロノームのような動きは舞台のどこから観ていても、また目を離す瞬間があっても、舞台で演技しながら歌う歌手にとっては心強い存在のような気がしました。
ジェルメッティ、ノセダ、パッパーノらのアシスタントをしていたそうですが、この日の出来からすると既に師匠達を上回っているような・・・・
でもジェルメッティなどは1回しか聞いてないし、他の2人も3、4回しか聞いてないのですから、そこまで言ってしまうと失礼_(._.)_ 


ミキエレットは姿を現しませんでしたが、カーテンコールは賞賛に溢れてました。

以上公演の感想。


以下蛇足なので、読まなくてもよいです。
一瞬ミュンヘンのようだと書きましたが、保守層の多いイタリアではそれが気にくわない、現代的な演出などとんでもない、グローバル化などもってのほかという批判もあるようで、実際プレミエでは反発があったようです。
しかし、ミキエレットの演出は時代背景を遷したたけで、大きな読み替えのあるものではなく、むしろその本質をしっかりと捉えているものでした。
この演出で反発があるとは・・・・
才能ある多くのイタリアの音楽家達がドイツ語圏で活躍している理由は経済的な問題だけではないと思ったのでした。
この公演は正にイタリアの将来を担う才能とイタリアの偉人ヴェルディとのコラボであって、スカラこそ発信するべき場所。
それを現代化やグローバル化などという言葉で批判するのは的外れも甚だしいと思うのですが・・・
今時若い世代に現代化するな、グローバル化するなというのはガラパゴスや北朝鮮じゃあるまいし・・・
はーっきり言って無理!
もちろんイタリアはガラパゴスでも北朝鮮でもなく、アルプスを越えることなど簡単なこと。
ガラパゴス派の大きな特徴は新しい発想が古いものを駆逐してしまうと心配なのか?新しい発想が生まれても決して歴史は消えるものではないということを理解してないかのごとく、新しい息吹を嫌って新しい歴史を作ろうとしないところです。
このガラパゴス派の存在こそが、イタリアオペラ界の空洞化に繋がっているという疑問をガラパゴス派の人達は持ったことはないのでしょうか?
ガラパゴス派の主張は単に自分たちの好みと都合で、イタリアはこうあるべきと主張しているだけで、実際にオペラにかかわろうとする若い世代が活躍するのを阻害しているだけのようです。
ガラパゴス派のお目にかなった若者だけが注目の才能として盛り上げようとする意図もありそうですが・・・。
ガラパゴスへ行けばガラパゴスの希少生物が見れるという同じ特徴をイタリアは持つべきなのでしょうか?
歴史を作るのではなく、遺跡を保存するのと同じ考えでよいのでしょうか?
古いものを大切に守る精神は貴重です。
しかし、オペラは世代から世代へと受け継がれ生き続けていく芸術。
新しい世代が積極的に参加できる土壌をつくらない限り、アルプス越えは続いて空洞化は進んでいきそうです。
ミキエレットやルスティオーニのような豊かな才能を逃してもよいのでしょうか?
一流歌劇場であり続けるためには常に生み出す力も必要であり、スカラにガラパゴスとなる選択などあるはずがありません。
一方でスカラが抱える現実的な問題はグローバル化でもベルリン化でもなく、ビジネス化なのかもしれません。
既に公的資金だけでは経営が困難な中、スポンサーがつき、キャストなどにその影響があるように思える公演もチラホラ・・・・
しかし、公的資金は減ったとはいってもなくなったわけではないので、舵取りは難しそうです。
次期総裁のペレイラ氏の手腕やいかに?

ガラパゴス派は総裁や音楽監督がイタリア人じゃないというだけで気に入らないようですが、イタリア人でスポンサーを獲得する力があり、難局を乗り切れる人物がいるならその人がやってるでしょう。
イタリアの有望な音楽家たちの多くが国外へ流出してしまい、経営難を引き受けるだけの人物もいないのに
国と経済難のせいだけにして的外れの文句と因縁しか言わないガラパゴス派は、一昔前のワグネリアンよりはるかに怖くて近づきたくないものがあります。
現代化、グローバル化しても決して世界中同じにはならない、それぞれの歌劇場の持つ音は違うのは明らか。
バレンボイム先生のワグナーはベルリンとスカラでは異なるそれぞれの美しさがあるのですが、そんなこともガラパゴス派には理解できない、というより関心もないのでしょうが・・・・
自国の若者の才能を理解しようともしない人達にに将来の展望はあるのでしょうか?

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Sheva

Kametaro さま、珍しくまじめなリポートですね(笑)わかります。いい公演であればあるほど真摯に書きたくなっちゃいますよね!うれしいなあLucicのリポートが読みたかったので。ありがとうございます!アルプス越えの話も含蓄がありますね。まさに国際人ですね。Kameさまは。尊敬します!
by Sheva (2013-10-10 12:58) 

kametaro07

Sheva さま
基本的にはいつもまじめです!
ただ今回のスカラ来日公演は本場で聴いたあとだっただけに特に情けなかった。
それでも滅多に有名人を聴けない日本の観客の人たちにしてみれば聴けるだけでも嬉しいというのは間違いなくありますからね。
スカラもスポンサーが入ってビジネス主義にならざるをえないところもあるのかな・・・と。
外貨稼ぎはイタリアの歌劇場にとって重要な収入源でしょう。
国際人でもなく含蓄といえるようなものもありませんが、イタリアって半島だけあって島国根性に近いものがありますね。
いつまでたってもムーティさま、ヌッチさま・・・他数名の有名人がいることが需要なようで、劇場も数個あれば充分そう。
多くの音楽家が集うドイツ語圏と比べたら、種類の豊富さ、解釈の新鮮さなど音楽的魅力は雲泥の差で、有望な中堅どころがドイツ語圏にいったら帰ってこないのは当たり前だと思っているだけです。
ドイツってたいして面白くない国なので、昔はほとんど行かなかったのですけど^^;多くの音楽家が集うところが質が高いのは当然ですが、活気が違います。
音楽の質の高さに甘えて演出家が色々やりすぎという難が伴ってしまうときもあるのですが、カビの生えそうなものもいくらでもあります。

by kametaro07 (2013-10-12 16:00) 

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